聖書と共に

神は、その民をお捨てにならない

今日は、ローマ書11章からです。

「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)と「静まりと
黙想の朝に」と私の考えの混合です。

聖書に一貫している一つの流れは神の選びである
。神に覚えられている、という事である。
何の、いさおしもなく、何一つ神の尽くしたわけ
でもない者、数々の迷惑をかけた私が、天国に
記されている。

神が選ばれた民(イスラエル)を捨てる事は、なさ
らない。例としてエリヤをあげている。

南北に二分されたイスラエルは、北イスラエルと
南ユダになった。南ユダは神様への信仰があった
が、北イスラエルは、エジプトの神を拝した。

さらに、アハブと言う王様になった。
問題は、彼の妻イゼベルである。
イゼベルは、北イスラエルの隣国フェニキア王の
娘であった。この女は悪女で、北イスラエル中の
丘や、山に、自分の故郷のバアル神殿を作った。
その当時の指導者や民衆はイゼベル妃に従って
バアルを拝した。

これに対抗して、エリヤという預言者が立った。
バアルの僧侶ら400人と対抗し、彼等を殺害した
。イゼベルに狙われたエリヤは、絶望して神に
自分の死を求めた。神様に仕えている人は自分
だけですと。       (列王記上19-4)

その時、神はエリヤに向かって、
「私はイスラエルの内に7000人を残すであろう
彼らは皆、バアルに膝をかがめず、それに
口づけしない者である。」 (列王記上19-18)

7000人の人は今も純粋な信仰を持っている、と
言われた。

この悪女イゼベルの娘のアタリヤも悪女で、
何と、南ユダの王と結婚し、南ユダにもバアル
を持ち込んでしまった。そして、自ら、南ユダ
の王様にもなった。(短期間)

神は、イスラエルを神の恵みを取り次ぐ者として
選ばれた。しかし、彼らは神の意思に背き、
つまずいたのである。
ところが、神は、その事を異邦人への恵みの機会
とされた。

オリーブの「元木」はイスラエルで、
「野生のオリーブ」は異邦人である。

「元木」は不信仰だったため切られたが
「野生の木」が接ぎ木される為であった。

神は厳しさだけの、お方ではない。
慈愛の神であり、回復の道を常に備えておられる。
接がれる為の人間の側の要素は、ただ信仰である。
そして、信仰とは従う事である。
愛の神への応答は、全き信頼である。



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