のヨブ記から、ご紹介します。
一人の婦人がいた。彼女の子供は、ある
有名大学の工学部に在学中、山で遭難した
。彼女の悲しみは筆舌につくしがたいほど
深かった。
ただ来る日も来る日も、仏前に座って亡き
子をしのんで悲しみ続けた。食事もとらず
、外にも出ずに悲観にくれる彼女を、
なんとか慰めようとして、家人や友人は、
あれこれ試してみたが、彼女は一向に、
それに耳を傾けなかった。
ところが、ある日、彼女は、ふと誘われる
ままにキリスト教の家庭集会に出席した。
それ以来、彼女は熱心に求道生活を始めた
一年余りたった時、彼女は受洗を勧められ
た。その時、彼女はこう、つぶやいた。
「先生は、神様は愛だ、神様は愛だ、と
おっしゃるが、どうしても私には神様が
愛だと思えないのです。もし神様が愛の方
であれば、どうして私の子供を危険から
救って下さらなかったのでしょう」
誰も、この質問に答える事はできなかった
。そして、また一年余りたった時、彼女は
自分から受洗を申し出た。その時、彼女は
こう言った。
「私には子供がなぜ、あんな死に方をした
のか、いまだにわかりません。しかし、
それとは別に、神は、そのひとり子を、
この私のためにつかわし、十字架につけて
私の罪の贖(あがな)いを成し遂げて下さっ
た事が信じられる様になり、だから神が
愛であると信じます。
いつか神様のところに行き、子供の死も、
また神様の愛のご配慮の中で起きたことで
あるのだと、分かる時があると信じます」
彼女は現実から神を見ようとする事をやめ
神の啓示から現実を見、現実の中で神は
愛であるというメッセージを、受け止める
様になったのである。信仰とは、この事で
ある。
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北朝鮮拉致被害者、横田めぐみさんの母
横田早紀江さんもキリスト者である。