から、ご紹介します。
神学や学問に頼って信仰生活をしている人
は、いつまでも確信が持てないのである。
けれども、実際に経験した人には、たとえ
博士が、法王が何と言おうが、私はこの
経験をしたのだからという、消すことの
出来ない根強さがあるのである。
キリストによる贖罪、これを文字として
事柄として受け取ってはならない。
本当に、自分の罪に苦しみ悩み、その末に
キリストの上に私の罪が置かれた、
それ故に、私は赦されたのだ。
「あなたの罪は赦された」という宣言を
神から聞くという体験をしたなら、私達は
新生し、生ける神に仕える者とされていく
のである。
罪の感覚が、特に日本人は鈍い。
おはらい、という言葉がある。けがれを払
う祝詞である。それは、人間の罪のけがれ
を川に流せと教えている。流してしまえば
良い。
悪いことを、流したら良いという考えであ
る。神社で手を洗うのも、そうである。
その罪のけがれに対する人間の責任がない
のである。
聖書は、血を流すことによらなければ、
罪の赦しはないと教える。
血を流すとは、死である。死ぬという事は
最大の責任をとる、という事である。
なぜ罪を、そんなに大きく考えるのだろう
か。それは、聖書が、私達、人間は神に
よって造られた。神に造られた者が罪を
犯すという事は、神に対して責任がある
訳である。
だから神は、それを責めたもうのである。
その責任を負うたのが、イエス・キリスト
の十字架の死である。イザヤ書に
「彼は我々の不義のために砕かれたのだ」
と預言され、それが成就したのである。