聖書と共に

私自身の教えではない

今日も「ヨハネ福音書講義上」より、抜粋し、
ご紹介します。

 主はたびたび、「私の教えは、私自身の教え
ではなく、私を遣わされた方の教えである」
(ヨハネ7-16)と、おっしゃいました。
 ですから主の言葉を読む時には、これは
父なる神の言葉だと知っておかねばなりません
。これによって神の御子は真の神の僕である
がわかります。

 ご自身は知恵と悟りに満たされていましたが
、ご自分の事を全く捨てて、ただ、父なる神の
管となられました。私達はそれによって、大い
に教えられたいと思います。この手本に従って
ただ神の恵みの言葉の管となりたいものです。

「私の神、主は、あなたの内から、あなたの
同胞の中から、私の様な一人の預言者を、あな
たのために起こされる。彼に聞き従わなければ
ならない…。私は彼の口に、私の言葉を授けよ
う。彼は私が命じる事をみな、彼らに告げる」
           (申命記18-15、18)
主イエスは、この預言を成就なさった事を見ま
す。主は、まことの預言者でした。
預言者とは、どの様な者かというと、神の言葉
の管です。自分の言葉を言わず、神の言葉のみ
を言う管です。

 私達は、どの様にして神の教えが分かるので
しょう。勉強によってでしょうか。その様な
ものではなく、、ただ服従によってです。
主イエスの歩みを見ると、ただ服従の生涯でし
た。私達は服従によって、悟りを得ます。

これまでに教えられた事に従わなければ、
新しい教えを受け入れる事は出来ません。
ですから、主の言葉を聞いた時には、まず、
それに従う事が大切です。

「自分から」(7-17、7-28、8-42)の言葉を見ま
す。この3ヶ所を深く味わいたいものです。
主イエスは、ご自分を前面に押し出されません
いつも、ご自分をお忘れでした。主イエスが
生きているのではなく、父なる神が主イエスの
中に生きておられました。

 ですから主は父なる神を現す事が、お出来に
なりました。私達は、どうすれば父なる神の
栄光を見る事が出来るのでしょうか。
モーセの様に、シナイ山の頂上に登りましょう
か。そうではありません。四つの福音書の中に
神の恵みの栄光が輝いているのを見ます。

 主には、自分の内に不正はないという確信が
ありました。ご自分の聖潔を、良くご存じでし
た。
汚れとは、どの様なものですか。不義とは、
どういうものですか。
これらはみな、自分の栄光を求める事です。
自分の栄光を、少しも求めなければ、その人の
内に不正はありません。その人は聖潔です。

「私は私の栄誉を求めません」
「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉
を求めない、あなたがたは、どうして信じる事
ができますか」
私達は主の様に、なればなる程、自分の栄光を
求めなくなります。
「私がいつも、そのみこころに、かなう事を
行うからです。
この方は、神の傷も汚点もない子羊です。
その言葉と、行いを見るならば、神の潔き子羊
です。
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