聖書と共に

主の犠牲

今日も「ヨハネ福音書講義 上」より、ご紹介
します。

エルサレムの宮では、傷のない羊を屠らなけれ
ばなりませんでした。それは少しも汚れのない
傷のない羊でなければなりません。

初めて宮を訪れる人は羊を祭司に見せて、
祭司が、それで良いと判断すれば、汚れも傷も
ない羊として認証されました。その羊が、その
様に認証されれば、犠牲となります。

 ここで主は、父なる神が、主を認証なさった
とおっしゃいました。ですから自分は屠られる
べき羊であり、子羊は、自分の命を捨てて、
人々に「永遠の命に至る食物」を与えることが
できます。
   ーーーーーーー
 主は、どうして人間の目の前で贖(あがな)い
をなして下さったのでしょう。
主は神の御前に贖いをなして下さるはずでは
ありませんか。
どうして、十字架に釘づけられて、人間の目の
前で贖いをなして下さったのでしょうか。

これは、人間に、この贖いが成就した事を、
明らかに、お示しになるためでした。又、その
贖罪の価値を明らかに、お示しになるためです
主が天で、ご自分をささげて下さったなら、
私達は、その犠牲を悟る事ができません。
それでは私達には、主のご慈愛がわかりません
。ですから、地の上で神と和解させるために、
贖いをなして下さいました。

 誰が主の十字架の深遠な真理を説明する事が
できますか。
これを説明するために、主は旧約時代の話を
なさいます。
自分はヤコブの梯子だ
自分は青銅の蛇だ
私はヤコブの井戸です。
私は、まことの祭です。
この様に、旧約聖書は、主イエスご自身の事を
示しています。特にヨハネの福音書は旧約聖書
注解になっている事がわかります。

**********
「すなわち、彼は後ろのものを立てるために
初めのものを廃止されたのである。
この御旨に基づき、ただ一度、イエス・キリストのからだがささげられた事によって、私達は
潔められたのである。

こうして、全ての祭司は立って、日毎に儀式を
行い、たびたび同じ様な、いけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるにキリストは多くの罪のために、
一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に
座し、…。彼は一つの捧げ物によって、潔めら
れた者達を永遠に全うされたのである。

聖霊も又、私達に証して、
『私が、それらの日の後、彼らに対して
 立てようとする契約は、これであると。
主が言われる。
私の律法を、彼らの心に与え
彼らの思いの内に書き付けよう。』」
            (ヘブル10-9~16)

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