します。
エルサレムの宮では、傷のない羊を屠らなけれ
ばなりませんでした。それは少しも汚れのない
傷のない羊でなければなりません。
初めて宮を訪れる人は羊を祭司に見せて、
祭司が、それで良いと判断すれば、汚れも傷も
ない羊として認証されました。その羊が、その
様に認証されれば、犠牲となります。
ここで主は、父なる神が、主を認証なさった
とおっしゃいました。ですから自分は屠られる
べき羊であり、子羊は、自分の命を捨てて、
人々に「永遠の命に至る食物」を与えることが
できます。
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主は、どうして人間の目の前で贖(あがな)い
をなして下さったのでしょう。
主は神の御前に贖いをなして下さるはずでは
ありませんか。
どうして、十字架に釘づけられて、人間の目の
前で贖いをなして下さったのでしょうか。
これは、人間に、この贖いが成就した事を、
明らかに、お示しになるためでした。又、その
贖罪の価値を明らかに、お示しになるためです
。
主が天で、ご自分をささげて下さったなら、
私達は、その犠牲を悟る事ができません。
それでは私達には、主のご慈愛がわかりません
。ですから、地の上で神と和解させるために、
贖いをなして下さいました。
誰が主の十字架の深遠な真理を説明する事が
できますか。
これを説明するために、主は旧約時代の話を
なさいます。
自分はヤコブの梯子だ
自分は青銅の蛇だ
私はヤコブの井戸です。
私は、まことの祭です。
この様に、旧約聖書は、主イエスご自身の事を
示しています。特にヨハネの福音書は旧約聖書
の注解になっている事がわかります。
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「すなわち、彼は後ろのものを立てるために
初めのものを廃止されたのである。
この御旨に基づき、ただ一度、イエス・キリストのからだがささげられた事によって、私達は
潔められたのである。
こうして、全ての祭司は立って、日毎に儀式を
行い、たびたび同じ様な、いけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるにキリストは多くの罪のために、
一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に
座し、…。彼は一つの捧げ物によって、潔めら
れた者達を永遠に全うされたのである。
聖霊も又、私達に証して、
『私が、それらの日の後、彼らに対して
立てようとする契約は、これであると。
主が言われる。
私の律法を、彼らの心に与え
彼らの思いの内に書き付けよう。』」
(ヘブル10-9~16)