「今や、人の子は栄光を受けます。神も彼によ
って栄光を受けられます。…神も彼に栄光を与
えられます。今しばらく、あなた方と共に居ま
すが、あなた方は、私の行く所に来る事はで
きません」
私は新しい戒めを与えます。
「あなた方は、互いに愛し合いなさい。私が
あなた方を愛した様に愛し合いなさい。これに
よって人はみな、あなた方が私の弟子だと知り
ます」
シモン・ペテロ言う。「主よ、どこに行かれま
すか」イエスは答えられた。「私が行く所へ、
あなた方は今は、従う事は出来ません。しかし
後に従います」…あなたが私を3度、否認する
まではニワトリは鳴きません。
ここから「ヨハネ福音書講義」(バックストン)です
表面的な所を見れば、今、人の子は恥を受け
ると思われます。神も又、この方によって恥を
受けると思われます。けれども、私達は、信仰
によって主の十字架の栄光を見る事ができます
主は、十字架の苦しみを恥と思われません。
かえって、栄光を見られました。
兄弟姉妹よ、私達が神に導かれて恥と苦しみ
に遇わなければならない時には、その事を思わ
ず、十字架の栄光だけを考え進んで下さい。
人から辱しめられる事を重要な事と思いまし
ょう。人から辱しめを受けるなら、その事の故
に神から栄光を受けます。
私達は人からの軽蔑を避けましょうか。十字架
を逃れましょうか。いいえ、神から尊ばれる事
を求めたいものです。
それまで弟子達は肉によって、いくらか主を
知る事が出来ました。しかし、これからは霊に
よって、主を知る事を学ばねばなりませんでし
た。今主は、弟子達の所を去らねばなりません
主が弟子達を去るなら主に忠実に仕える印は
何でしょう。
「互いに愛し合いなさい」私達が今、主の前で
忠実であると示したいなら、兄弟を愛する事に
よってです。
真の教会の印は何でしょう。
あるカトリック教会は、「使途の時代から正統
的な按手式を受け継いで来たので、真の教会で
ある」と言います。けれども、真の教会の証拠
は教会政治にあるのではありません。聖礼典に
あるのではありません。表面上の形状にあるの
ではありません。ただ愛にあるのです。
「もし、互いの間に愛があるなら、それによって、あなた方が、私の弟子である事を、全ての
人が認めるのです」
ペテロには熱心さがあります。忠実でもありま
す。けれども、それ故に、十字架を負う事が
出来るという訳ではありません。
聖霊は死に至る道です。なぜ、私達に聖霊が与
えられるか、と言うと、主の十字架を負うため
です。なぜ、私達にペンテコステの聖霊が与え
られるかと言うと、溢れる程の喜びを与える為
ではありません。十字架を負う事が出来る為で
す。死に至るまで主に従う力を与える為です。
ある兄弟は、ペテロの様に、「喜んで恥を受ける」、「死に至るまで忠実である」、「死に至
るまで主に従う」と言います。けれども、それ
はまだ、自分が弱い事を知らないからです。
同じ晩に、大祭司の中庭で女中の一人の言葉で
イエスを否認したぺテロの様に、ペテロは自分
が弱い事を悟りました。罪に陥った後で、初め
て、その事を知りました。
ですから、あなた方が主に従おうとすれば、
「私は、あなたに聖霊を与える」と言って下さ
います。それによって、恥と十字架と、死とを
耐え忍ぶ事が出来ます。
ぺテロも、「後にはついて来ます」との様に
従いました。