聖書と共に

奥義を解いて神の知恵を語る

今日は、「第1コリントへの手紙」2章です。

「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著)より
パウロは、この世の知恵は否定するが、神の知恵
は尊重する。神の知恵は旧約の時代には隠されて
いたが、今は明らかにされている。
それは御霊によって、私たちに顕されているので
ある。

この箇所には「奥義」、「御霊によって判断され
る」など、神秘的な表現が多い。

聖霊の働きは、キリストが完成した救いの真理を
一人ひとりに、分からせて下さる事である。
御霊によって、導かれるなら、その人は主イエス
の事が徐々に分かってくる。
聖霊の働きは、絶えずキリストと結び付き、恵み
を取り次いで下さる。

「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)より

本当にイエス・キリストは私の主であるという
経験、この出会いの経験をして欲しいというの
が、パウロのコリント教会への切なる願いで
あった。

人々にキリスト教を伝える時、
「どうも、わかりませんね」と言われたりする。
そして、私達はすっかり、考え込んでしまう。

しかし私達の信仰とは、この世の知恵ではない
のである。むしろ、この世には隠されており、
人々には、分からないのが当然なのである。
私たちも、御霊によって、目が開かれるまでは
分からなかったのである。

神が人となり、十字架で最期をとげられ、3日
目によみがえられ、信じる者に新しい生命を
下さる。
この証言は、私達が、どんなに勉強しても、
そんな事で、分かるものではない。
聖霊によって示されるのである。

神から、どんなに大きな愛が私達に与えられて
いるかは、神からの霊によってこそ、分かるの
である。

「キリストは私達の為に十字架につかれた」
と言うだけなら、別に信仰しなくても言える。
しかし、その空虚さは、どうだろう。
そこに、内容が伴わなければ、人を動かす事は
できないのである。

神学とか、思想といったもので、その人の魂が
喜んだり、砕かれはしない。神の御霊だけが、
成し得るものである。

    **************

私が教会に行き始めの頃、十字架について話を
聞いても、それが、自分の事として迫って来ま
せんでした。
イエス様の十字架は、あなたのためですよ、と
言われても、

「イエス様を十字架に付けたほど、そんな大き
罪を私は犯していません」との思いです。

しかし、徐々に、神様を信じ、従って来なかっ
た、これが大きな罪だ、と示され、十字架は
私の為、思える様になりました。

私の経験から言いますと、教会に連なっている
事が大切と思います。教会には聖霊が宿って
おられますからです。
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