「わが霊魂(たましい)は黙(もだ)して、ただ神を
待つ。わが救いは神より、出(いづ)るなり。」
(62-1)
「わが霊魂よ、黙して、ただ神を待て、
そは、わが望みは神より出(い)づ」
(62-5)
「民よ、いかなる時にも、神により頼め、
その前に、汝の心を注ぎ出(いだ)せ」
(62-8)
ここから「岩から出る蜜」(蔦田二雄著)からです
62編は「無二編」として覚えやすく、多くの人
に親しまれている歌である。
「黙って、ただ神を待ち望む」は告白であるが、
文語訳では、自らの霊魂に、命じる言葉になって
いる。(62-5)
「沈黙と祈祷」これは、どの様な事を意味する
のであろうか。
肉体活動の激しさの中にあっても、たましいは
しっかり沈黙とする事が可能なのである。
そして祈祷が、沈黙から出てくる叫びとなる。
その事が出きるような人物が養成されなければ
ならない。
霊の世界には、教理も知識も必要であるが、
それだけでなく、段階を経て深い経験に至らな
ければならないものである。
「たましいの沈黙」、それは新約の言葉で表現
するならば、パウロの手紙にある、
「私はキリストと共に十字架につけられました」
と、自分を十字架につけ続けている姿である。
「沈黙」そして「ただ神を待つ」と、血肉が
全く停止されてしまう時、次第に、様々のもの
は消えて神だけを見る。
神に思いが集中されるのである。その時、
「神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら」と
して神をとらえる事ができるのである。
ダビデは沈黙と祈祷の中に確信を得て、
「民よ、どんな時にも神に信頼せよ。
あなたがたの心を神の前に注ぎ出せ。
神は我らの避け所である」 (62-8)
と勧めている。
讃美歌529「ああ うれし わが身も」の4番
の歌詞
「胸の波 収まり、心いと静かにて
我もなく世もなく ただ主のみ いませり」
ここから「神を待ち望め」(アンドリューマーレー)
からです。
神を待ち望む必要性の高さは、人間と神の双方
の本性に深く根差しています。
創造者であられる神は、人間を形作って、その
内にご自身の力と善とを示す事の出来る器と
されました。
人間は自分自身の内に、命や力や幸福の源を
持つように造られは、しませんでした。
永遠に生き、ただ一人、他者に依存せず存在
しておられる、お方が瞬間ごとに、人間に、
その必要な、全てのものをお与える事になてい
たのです。
人間の栄光と祝福とは、それだけで独立して
存在するものではなく、それは無限の富と愛を
持つ神に依存する事になっていたのです。
人間は神の満ち満ちているものの中から、瞬間
ごとに受ける喜びを味わうはずでした。
これが、堕落以前の人間に与えられた祝福
でした。