聖書と共に

イエスの弟子達における謙遜

今日は「謙遜」(アンドリュ-マ-レ-著)から抜粋し
ご紹介します。

ある時、弟子達は、自分達の内で誰が一番
偉いかを議論していた。又、ある時は、
ゼベタイの二人の子(ヤコブとヨハネ)が、母親と
共に第1の地位、即ち、イエスの右と左に
座る事を願い求めた。そして、最後の晩餐
の席で、再び、誰が1番偉いかをと言う
論争が起こった。

これら全ての意義を学ぶ事によって、重要
な教訓を得られる。
①謙遜が欠如しているのに、熱心で活動的
な信仰がいかに多いかという事である。

 弟子達には、イエスに対する燃える様な
愛があった。主のために、全てを捨てた。
父なる神は、彼らに主がキリストである事
を啓示しておられた。彼らは主を信じ愛し
その命令に従った。彼らは、いつでも主と
共に死ぬ決意をしていた。

しかし、この様な奥には、暗黒の力があっ
た。彼らは、その力の存在、恐ろしさを
ほとんど意識していなかった。彼らが
イエスの救いの力を証しする前に、それら
のものは捨てられねばならなかった。
この事は、現代においても、同様である。

②全ての外的な教え、全ての個人的な努力
は、高慢を克服し、へりくだった心にする
為に、無力である。

三年間、弟子達はイエスの訓練所に入って
いた。イエスは弟子達に主要な教訓を語っ
ておられた。
何度も、何度も、弟子達に、パリサイ人に、
群衆に、神の栄光に至る唯一の道である、
謙遜について語られた。
「人の子が来たのは、仕えられる為では
なく、反って仕える為である」
「私は、あなた方の内にあって、給仕する
者の様にしています。」
イエスは、弟子達の足を洗い、その模範に
ならう様にと言われた。

しかし、こうした教訓をもってしても、
ほとんど、無効だったのである。この事は
次の様な教訓を与える。即ち
どのような外面的な教えも、どの様な議論
も、謙遜の美徳を称える意識も、どの様な
個人的な決意も、努力も、高ぶりという
サタンを追い出す事はできない、という
教訓を与える。

③私達が真に謙遜になるのは、神の謙遜を
備えておられるキリストの内住による。

私達は、私達の高ぶりを、他の者、アダム
から受けている。私達の謙遜も他の者から
受けなければならない。
高ぶりは私達の性質そのものです。高ぶっ
ている事が自然でたやすい事です。

「罪の増し加わるところには、恵みも満ち
溢れる」という約束がある。
弟子達への、あらゆるキリストの教え、
それを守ろうとする弟子達の、むなしい
努力は、キリストの内住の準備でした。

永遠のあがないを成し遂げられたイエスは
父なる神から全く新しい命(それは、弟子達
を新たにし、彼らを満たす命)をお受けに
なった。この聖霊を通して、主は、この
地上で成し得なかった事をなさった。

即ち、ご自身を弟子達と一つとし、ご自身
が彼らの生活を生き、謙遜な生活をする事
が出来る様にされたのである。それは
ペンテコステの力強い変化によって完成
された。

その後の、ヤコブ、ペテロ、ヨハネの生活
と手紙は、全てが変えられた事、柔和な
苦難のイエスの精神が真に、彼らを捕えて
いた事を証ししているのである。


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