紹介します。
ヨハネの福音書には、主の内的生活が明記
されている。humble(謙遜な)という話は、
この福音書には一度も出てこないが、聖書
の中で、この書ほど、イエスの謙遜が明記
されている書はない。
イエスは、天における神の御子としても、
地上における人の子としても、彼は全き
従属の地位をとり、誉れと栄光を父なる神
に、お捧げになった。
そして彼が、教えられていた「自分を低く
する者は高くされる」という事は、彼ご
自身において事実となった。「彼は自分を
卑しくされた。それ故、神は彼を高くあげて…」と記されているからである。
イエスは、ご自身について、絶えず
not(…でない)とかnothing(何事も…ない)
という語を使っておられる。
「子は…自分からは何事も行う事ができま
せん。」 (ヨハネ5-19)
「私、自身の望む事を求めないからです」
(ヨハネ5-30英訳)
「私は、人からの栄誉は受けません。」
「私の教えは、私のものではなく…」
「私は、自分で来たのではありません」
「私自身からは何事もせず」
「私が、あなた方に言う言葉は、私が自分
から話しているのではありません」
これらの言葉はキリストのご生涯とみ業の
最も深い根源です。
全能なる神が、キリストを通して、ご自分
の力強い、贖(あがな)いの、み業を成す事
が出来た理由を語っています。
主は、父なる神が、内にお働きになる為に、
ご自身を、ご自身の意志を、ご自身の力を
、ご自身の栄光を、ご自身の宣教、これら
全てに関して、私は無きに等しい者である
と言われた。
神は、その信頼を善しとされ、彼の為に
全ての事を成し、そして高く上げて栄光の
内に、ご自身の右に座せしめられた。
私達の取るべき立場は、自分から何ものに
なろうとか、何事かをしようとか、を
一切しない事に同意し、神に全く明け渡し
、依存する事だという事を知る事である。
イエスが、人との交わりにおいても、
神との交わりにおいてと、同様に謙遜で
あられたのは、これが、彼の全生涯を通し
ての精神であったゆえである。