から抜粋し、紹介します。
「信仰の薄いもの達よ、なぜ…互いに論じ
合っているのか。」 (マタイ16-8)
肉の思いから起こる議論ほど、
単純な信仰や、「信仰より出ずる喜びと
平安」(ロ-マ15-13)を破壊する害毒は、他に
多くない。
議論というものは、多くの場合、不信仰な
悪い心から生じるものである。
実際、弟子達が議論し始めたのは、知覚の
欠乏によるものではなく、信仰の欠乏が
原因である事を主は、知っておられた。
議論は外的、悪魔の誘惑から来る事もある
が、内心の不信仰から来ている事が度々
ある。この事についてジョン・フレッチャ-が
言っている。
「あなた方は、内的理性の目を閉じ、蛇の
議論に耳をふさがねばならない。もし彼に
耳を傾けていれば、際限がない。すると、
たちまち、単純な信仰の道から引き落とさ
れるであろう。我らは、この単純な信仰の
道によって、義とされ、又聖められたので
はないか。」
主イエスは、この様な霊的でない、愚かな
議論の原因を不信仰とされた、
未だに不信仰と肉の思いから、自由にされ
ていない、彼らの魂は、自然に恐れ、論じ
る。彼らは口実を設けて、これに頼り、
何か頼りになりそうなものに頼ろうとして
いる。
単純な信仰によって神に全く身を任せて、
信頼する事をしない。
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明治期に日本にキリスト教が入って来た時
文化人や、教養のある人、即ち、上流階級
の人々に入った。そこでは神学が尊ばれた
バルト、ブルンナー、ボンヘッファー等。
単純な信仰と、祈りは軽んじなれた。
しかし、同じキリスト教が韓国では、下層
階級の人々に入り、単純な信仰と祈りに
よって多くの人が信じた。
最近でも日本のある牧師は言っている。
「聖書は信仰で読むのではなく、
神学て読むのです。」と
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ここから「日々の光」(伝道出版社)です。
○主が知恵を与え、知識と悟りとは、御口
から出る。 (箴言2-6)
○神は、知者を恥ずかしめる為に、世の
愚かな者を選び… (第1コリント1-27)
○イエスは神に立てられ、汝らの知恵を義
と聖と、救贖(あがない)とになられた。
(第1コリント1-30)
○み言葉をうち開くれば、愚かなる者を
聡き者とする。 (詩編119-130)
○汝、心を尽くして主により頼め、自分の
聡明に頼るな。 (箴言15-5)
○人々、皆、イエスを誉め、又、その口
より出ずる恵みの言葉に感嘆して…
(ルカ4-22)