聖書と共に

罪について

間違って公開中の文を削除してしまいました。
再度、投稿します。

私がキリスト教会へ初めて行ったのは25才の時でした。教会で聖書を読み、聖歌を歌う。牧師の説教を聴く内に、「罪が分かる」ことが大切と思うようになりました。しかし、なかなか罪が分からない。
「2000年前にイエス様があなたの罪の為に十字架で死んで下さったのですよ」と牧師や神学生から
言われても罪が分からない。
私より後に教会に来た人が、私より先に信仰を持って洗礼を受けている。
そのような状態が1年くらい続きました。

そんな時、聖書のことばの
「今わたしは、人に喜ばれようとしているか、それとも神に喜ばれようとしているのか、…」のガラテヤ書1章10節のことばを読み、祈っている内に
神様を信じる信仰を与えられました。
それから、自分の罪が分かるようになりました。

すなわち、神様を心から神と信じなければ、罪は分からないと思う、むしろ聖霊の働きが無ければ罪は分からない(認罪に至らない)の方が正しいでしょう。

そして、自分の罪が分かって初めて、十字架の意味、貴さが分かってきました。
「わが肉を食らい、我が血を飲む者は、我に居り
、我もまた彼に居る」   (ヨハネ6-56)

私たちは罪を持ったままで、天の御国へは行けません。神様の目には私たちの罪は赤く見えるのでしょうか?
「たとい、あなた方の罪は緋のようであっても、
 雪のように白くなり、
 紅のように赤くとも、羊の毛の様になる。」
              (イザヤ1-18)
イエス様が十字架で流された血は、私たちの罪を
ことごとく白くする。すなわち罪を潔めて下さいます。

「彼は我らの咎(とが)の為に傷つけられ
 我らの不義の為に砕かれた。
 彼は自ら懲らしめを受けて、我らに平安を与え
 その打たれし傷によりて、我らはいやされた。
 」            (イザヤ53ー5)

教会では、今、受難週の時で、イエス様が十字架に掛かれれたのを記念する時です。

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