の著書からの紹介を多くしております。
お二人共に、アンドリュー・マーレーの
影響を受けておられます。
榎本先生は、京都で開拓伝道している時に
誰も教会に来ないために、椅子に向かって
説教を続けらるという苦しい経験をされた
ようです。そんな時に、アンドリュ-マーレー
の本に出会われて、助けられたとの事。
その本の朝の15分間が、あなたを変える
との、言葉です。
「朝起きたら、まず5分間、聖書を読みな
さい。次に5分間、祈りなさい。さらに
5分間、霊的書物を読みなさい。」
先生は変わりたい一心で、これを実行され
ついには、キリスト教会に知られる祈りの
人になられました。
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蔦田先生も、先生の音声テープを聞いてい
ますと、時々、アンドリューマーレーの事
を祈りの巨人、霊界の巨人と言及されてい
ます。
ここから「岩から出る蜜」(蔦田二雄著)
(ヘブル3-1~19)
信仰の使途、大祭司として立てられた主
イエスは、一貫して「忠実」そのもので
あられた。それは神に対しても、人に対し
ても同様であった。
不服従が、どれほどに恐ろしいものである
かは、イスラエルの歴史によって厳しく
警戒された所である。
新約の思想は服従の問題を行為として扱わ
ず、心の性質として扱っている。(12節)
主の忠実は、神に対する愛、信頼から出た
ものであった。父の前には真に素直な愛さ
れた子であられた。このイエスを熟考しな
さいと、聖霊は仰せられる。
ちなみに「考える」の英語「コンシダー」
は、ラテン語の「星を良く観察する」の
意から来ている。
私達の信仰は、功利的に手段化されては
いないだろうか。これでは本当の「子」で
はない。父から愛されている事を知らない
雇い人に過ぎない。
従う事は、霊的本能、当然の道である。
主は、どれほど喜んで自分の地位をお捨て
になられたことであろう。
神の恩愛、寵愛の対象者となったキリスト
者にとって、主に喜んで従う事の伴わない
祝福が、果たして幸いと言えるであろうか
昔の聖徒は言った。
「服従は愛の翻訳されたものである」と