パウロのローマ人への挨拶と励ましが書かれてい
ます。
「静まりと黙想の朝に」(松木祐三著)では、
ケンクレアは、コリントの数キロ東にある港町で
ある。この教会の女性役員フィベが、本書を
ローマに届けた。
ローマ人への手紙はテルテオが筆記者として、
重要な役割を果たした。その当時は、口述筆記
であるから、かなりの能力のある人でろう。
テモテはパウロの側にいて助手をしていた。
「新約聖書1日1章」(榎本保郎著)では
神の御心は、イエス・キリストによって顕される
までは、長い間、はっきりと示されなかった。
しかし、イエスが生まれ、十字架につかれ、復活
された、という出来事において、私達に、神の
御心が、どんなものであるかを示された。
その事をはっきりと受け止めていく時、私達は
力付けられる。
「限りなき主の栄光を求めて」(チェンバース著)
では
永続的な現実とは、人間の善性や聖さの事では
なく、天国や地獄の事ですらない。
贖(あがな)い、こそ現実なのである。
贖いをおいて、他に、永続的な現実は無い。
ある人は言う。
「私が望んでいるのは、贖いを別にして、どうし
たら、もっと、ましな人間にしてもらえるかだ」
【神は、すべてを、ささげられた】
「神は実に、その一人子を、お与えになった程に
世を愛された。」 (ヨハネ3ー16)
救いとは、単に罪から解放される事でもなければ、
自分を聖くする事でもない。
神による救いとは、私が自分自身から、すっかり
解き放たれて、神と一つに、される事である。
ヨハネ3-16は、神がご自身を捨てて下さった事を
意味している事に気付くまでは、服従の意味を
知った事にならない。
私達が本当に、神に服従しているなら、服従する
為に、努力している、という意識は無い。
私達の命の全ては、自分が服従する神に魅了され
ているからである。
パウロは自分を意識していなかった。
パウロは、向こう見ずと言われるほどに、自分を
捨て、全面降伏し、一つの目的の為に、神に
よって分かたれた。ただ神の福音を告げ知らせる
という目的の為に。 (ローマ9-3)