罪を犯す事は、決してしない」(第一サムエル12-23)
今日も、「岩から出る蜜」(蔦田二雄著)から紹介します。牧師になる学生に語られた文です。
ハンナの祈りによって誕生し、祈りを聞きながら
育てられ、祈る事を教えられて成長したサムエルは、イスラエルに黎明(れいめい)をもたらす、最初の預言者として立てられた。
福音を伝えない事がパウロにとって禍いであった様に、祈りを止めることは、サムエルには罪を犯すに等しいものであった。これはサムエルの自覚だけでなく、聖霊に悟らされた言葉である。
なぜ、祈らない事が罪なのであろうか。その理由を列挙してみよう。
1、祈らないという事は、神を計算に入れていない事であり、意識の中でも、神を無視している事になる。
2、祈らないという事は、自分の置かれている立場、仕事の重大さを知らない証拠で、責任の無自覚さを現わす。預かっているたましいが目の前に、浮かんで来ないのは、祈らない証拠である。
3、祈らないという事は、自分の無力を知らない、
一種の自負心である。本当に、足りない者である、という事が分かったならば、蝶々と、そんな
言葉を弄するよりも、まず、涙を流して祈るものである。本当に足りないという事が分かると、全幅的に神に頼る信仰になる。
4、祈らないという事は、その祈りによって、他の多くの人々が受けるべき恵みを奪うことになる。
5、祈らないという事は、怠慢と不信仰の現れであり、神の力が与えられる道を閉ざし、
論理と理屈の宗教としてしまう。
祈ることを、知らない伝道者は危険である。
真剣に祈る人に、不正直な人はいない。
祈りの臼(うす)は、どの様な課題も砕いてしまうものである。
時には、夜半目覚めた時、死と永遠を思って見なさい。この様な営みによって、養われる霊的なものがある。
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キリスト者は、誰でも、一人になって、聖書を読み、直接、神様に祈り、示しを頂く事が必要です
あなたの15分間があなたを代える(A・マーレー)