今日は「旧約聖書1日1章」(榎本保郎著)
から抜粋しご紹介します。
祭りさえ行っておれば、良いという宗教
だった。 (イザヤ29-1)
「年に年を加え、祭りを廻り来させよ」
とは、あなたたちは、そんなに祭りが
好きなら、年中祭りをやっておれ!との
との皮肉を含んだ言葉である。
宗教は形式を伴う。ところが、形式を守る
事が宗教であるかの様に思って来ると、
そこに堕落が始まる。
主イエスが神の子であり、その十字架が
私の罪の為である、と言うことは、考えて
分かるものではない。
聖書の宣言を、神の言葉として聞き、
その言葉に従って行く時に、ただの盲信
ではなく、聖書の言葉には真実があり、
力がある事に出くわすのである。
そういう生けるキリストに出会う事が無か
ったならば、どんな形式的な事を、やって
みても、それは意味の無い事である。
29章11節には、「それ故、この全ての幻は
、あなた方に対して封じた書物の言葉の様
になり」とある。
私達もは聖書を読んでも、心が打たれず、
無味乾燥に思う時がある。この書物を
解くには「深い眠りの霊」(10節)から醒め
なければならない。
聖書の人は聖霊によって語っているのだか
ら、私達も聖霊を受けなければ、その語っ
ている事を、本当の意味で理解する事は
できない。
注解書は補助的なものであり、決して命を
与えてくれるものではない。命は、やはり
聖霊によって受けなければならない。
16節に「あなた方は転倒して考えている
陶器師と粘土と同じものに思われるだろう
か」と書いてある。
私が神の為にあるのであって、神が私達の
為にあるのではない。
私達の望みや、喜びや、平和、理想の為に
神がある様に思われるけれども、
聖書は徹底して、神の為に私があるので
あって、私の為に神があるのでない事を
告げている。
そういう意味で、神を神として正しい位置
におくことが、悔い改めという事である。