「キリストは弱きによりて十字架に釘けら
れたまいしが…」(第2コリント13-4) という
み言葉を読み、考え、調べました。
キリストは肉体を取りて、我らと同じ人間
となり「自らも弱きを、まとわれた」との
黒崎幸吉の解説で、その意味が判りました
ヘブル書5-2には、人間の大祭司に対して
「彼は自らも弱きに纏(まと)われるが故に
…」とあります。
イエス様の生涯には、人間の姿がかいまみ
えます。
「イエスは40日40夜、断食をし、その後
飢えたもう」 (マタイ5-2)
「イエス旅路に疲れて、泉の傍らに座した
もう」 (ヨハネ4-6)
ラザロの墓前で「イエス涙を流したもう」
(ヨハネ11-35)
「汝らの中の一人が私を裏切ろうとしてい
る」 (マタイ26-21)
「イエス、憂い、悲しみ出でて…弟子達に
、我と共に目を覚ましていなさい」
(マタイ26-37)と言われゲッセマネの園で祈ら
れた。この箇所をアンドリュマ-レ-の「祈りの
生活」から引用します。
ゲッセマネの園で、いつもの様に主は、
まず、杯を飲まずに済まされる様に、苦悩
と血の汗との中で父に祈った。ーーそれが
不可能であると分かった時、杯を飲み干す
勇気を求められた。そして、全てを父に
委ねて「あなたの、みこころの様になさっ
て下さい」と言われた。
主は、十字架につけられ私達の罪を背負い
呪われる者となられた。十字架の上で
「イエスは大声で叫んで言われた。
『わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたま
いし』」(マタイ27-46)
イエス様は、弱きに纏われたご自身の肉体
を裂き、血を流された。
『我らはイエスの血により、その肉体なる
幕を通り、私達の為に開いて下さった、
新しい道をとおって、入っていく事が出来
る』 (ヘブル10-19)
『我らの大祭司(イエス)は、我らの弱きを
思いやる事ができない者ではなく、罪を
外にして全ての事、我らと等しく試みられ
たのである』 (ヘブル4-15)
「その子、イエスの血は、全ての罪より
我らを潔める」 (第1ヨハネ1-7)
讃美歌「主、我を愛す」の3番の歌詞
「御国の門(かど)を、 開きて我を
招き給えり、 勇て昇らん」