ここ数日のニュースの話題は、
新潟・福島の水害を大きく取り上げています。
この災害を見聞きする度、
昭和57年7月23日・長崎大水害を思い出されます。
小学校1年生だった私、今でも強烈に印象に残っているのは、
水害から数日経ち風邪をひき熱を出した為、
家からかなり離れた町にある掛かりつけの小児科に行く為に
通った線路沿いの道がコンクリートで舗装してあるのにも関わらず、
大きな亀裂が入っていたのです。
その光景を見た瞬間、幼心にもこの災害の大きさが身に沁みました。
当時住んでいた家は高台でしたので直接の被害はありませんでした。
しかし、家の直ぐ近くのストアーは床上浸水し、
精肉店の大きな冷蔵庫が水の力で数十センチも動き、
近所の氾濫した川からは、濁流に飲みこまれ最後の力を振り絞って
助けを呼ぶ悲痛な叫びも聞こえたそうです。
当時通っていた小学校では、夏休みが終わり新学期が始まった時、
誰も大きな被害に遭うことはなく、笑顔で再び逢う事が出来ました。
しかし、引越し中学入学と共に転校した町では、
大きな土砂崩れがあり死者も多く、
同級生の中には、両親・兄弟を亡くした人もいました。
今回の新潟の水害では、あれほど酷い状態でありながら
死者の数は少なく思えましたが、その犠牲になっている人は老人ばかり。
身体の不自由さから言えば障害者も同じです。
この新潟の災害でイロイロな事を考えさせられました。
新潟・福島の水害を大きく取り上げています。
この災害を見聞きする度、
昭和57年7月23日・長崎大水害を思い出されます。
小学校1年生だった私、今でも強烈に印象に残っているのは、
水害から数日経ち風邪をひき熱を出した為、
家からかなり離れた町にある掛かりつけの小児科に行く為に
通った線路沿いの道がコンクリートで舗装してあるのにも関わらず、
大きな亀裂が入っていたのです。
その光景を見た瞬間、幼心にもこの災害の大きさが身に沁みました。
当時住んでいた家は高台でしたので直接の被害はありませんでした。
しかし、家の直ぐ近くのストアーは床上浸水し、
精肉店の大きな冷蔵庫が水の力で数十センチも動き、
近所の氾濫した川からは、濁流に飲みこまれ最後の力を振り絞って
助けを呼ぶ悲痛な叫びも聞こえたそうです。
当時通っていた小学校では、夏休みが終わり新学期が始まった時、
誰も大きな被害に遭うことはなく、笑顔で再び逢う事が出来ました。
しかし、引越し中学入学と共に転校した町では、
大きな土砂崩れがあり死者も多く、
同級生の中には、両親・兄弟を亡くした人もいました。
今回の新潟の水害では、あれほど酷い状態でありながら
死者の数は少なく思えましたが、その犠牲になっている人は老人ばかり。
身体の不自由さから言えば障害者も同じです。
この新潟の災害でイロイロな事を考えさせられました。