ababa ...ひびのおたけび

CRPS・脊髄損傷…
病は体の自由を奪い痛みで蝕む
それでも私の心は自由で在り続ける
大空を羽撃く鳥の様に...

再会

2005-01-06 20:00:00 | 日記
今日の午後母Fと二人で、この日記にも時々出てくるちょっとケチな
以前勤めていたS木工へ行ってきました。
正月前に板にキャスターを付けたモノを作って欲しいと頼んでいたモノを
取りに行ったのです。石油ファンヒーターをその上に置いて
場所を移動させる時に楽にする為です。

本来は家まで持って来てくれると言われていたんですが、如何やら
年末いっぱい学校に納品する品を作っていたそうで、去年の暮れまで
すっごく忙しかったそうです。実は昨日もS木工にしたのですが、
年末忙しかった為か昨日まで休みだったらしく、電話のコールが哀しく
鳴り響くだけ…「年末忙しかったから、今年は年始に長く休むのかなっ?」と
思い電話をきりました。

そして、今日午前中S木工にしますと本来社長、あばばの影での呼び名
『オヤジ』がいつもの調子で「はい?」とに出てくれました。
「台はねぇ。出来とるけど、年末忙しかったけん。今日でも持って行こうと
思っとたとよ」と言われたので「いや、今日出掛ける用があるから、
取りに行きます」とをきりました。

このS木工もこの数年、従業員の変化が激しかったようです。
従業員といっても、常時1人か2人雇って、年末の忙しい時などに
『オヤジ』の大工仲間などを日雇いするのです。私がS木工に入ったのは、
平成9年6月21歳その時は『オヤジ』と同郷(北有馬これもなにかの
縁なのか母Fはその隣町、南有馬の出身なんです)で同級生のHさん
(かげの呼び名は『おっちゃん』。『オヤジ』・『おっちゃん』・あばばの
3人で仕事をこなしていました。軒並み木工所が潰れる中、S木工は
『オヤジ』の人柄からか3人くらいでこなせる仕事が休み無く入ってきて、
時には忙しくて2人くらい日雇いして木工所の中が箱だらけになる事も
ありました。『おっちゃん』は丁寧にし過ぎなのかちょっと仕事が
遅い事もありましたが、それでも上手く見習い兼下働き兼電話番のあばばで
仕事が周っていました。『おっちゃん』は数年前、仕事中に脚立に脚を
挟んだ後遺症で脚が少し不自由でした。
その上ある日50肩(60歳過ぎているけど・・・)になって槌が
振れなくなって辞めました。暫くは、『オヤジ』と私で仕事を
こなしていましたが、ある日社長が亡くなって閉鎖された木工所に勤めていた
人が自分を雇ってくれないか?とやってきました。Fさんです。
影の名は『オジン』は『オヤジ』よりも一つか二つ年上で家で
ボーッとしているよりも働いた方が良いとの事で働く事になりました。
『オジン』はちょっと仕事が荒い所があり、時々、あっ穴開いてるぅ!!と
見つけたりしていました。見習い兼下働きのくせに・・・私が辞めるまで
『オヤジ』『オジン』『あばば』の3人で上手く仕事が周っていました。っというか『オヤジ』曰く若いもんが私ほど長くまじめに働いた人が
それまでいなかったらしいのです。そりゃあ、そうでしょ・・・
寸志もまともになくって、祝祭日は出勤それも手当てなし・・・汚れるし...
私は木を相手にした仕事を最終的には木彫を仕事にしたかったから、
給料が安くても祝祭日休みなくても、2年近く働き続ける事が出来たけど。
半端な気持ちでは続く職場ではありません。『オヤジ』含め一緒に働く人が
良い人だったのも続けられた要因かもしれません。

年末作って欲しいと頼んだ時、Fさん『オジン』が2年前位
肺がんで亡くなったと聞きました。
S木工は今もあります。『オヤジ」は今68歳・・・元気です・・・・
ちっちゃいけれど145㌢くらいしかないです。今も『オヤジ』と
同年輩の人が来ていて、仕事は休みがないくらいずっとあるそうです。
頼んでいたモノはタダでした。お金用意していたけど・・・
これからも調子が良かったら遊びに来るように、何か木で出来るモノで
なにかあったらすぐにするようにと言われ帰ってきました。