ababa ...ひびのおたけび

CRPS・脊髄損傷…
病は体の自由を奪い痛みで蝕む
それでも私の心は自由で在り続ける
大空を羽撃く鳥の様に...

早10年・・・

2005-01-18 20:00:00 | 日記

1日遅れとなりましたが、昨日は阪神・淡路大震災から10年でした。
私は地震の起きた時間は、ほか弁の厨房で幕の内弁当のおかずの
詰め込みをやっていました。高校を卒業して1年が経とうとしていて、
前年の9月に受けた自衛官の二等陸士の試験に落ち、もう一回三度目の
受験をしようか如何か迷いつつ、とりあえずは稼ぎの良い深夜の弁当屋の
アルバイトをして普通車の免許を取ろうと思っていました。
午後9時40分から仕事の都合によって朝の8時か9時近くまで、
ろくに休憩もせずに10時間以上は働いていました。休みは週に1日
でも夜から日を跨いで朝まで働いていたので、週に1日休んでも
丸1日休んだと言う感じはなく、今考えると...よく働いたなぁ~と思います。
その分稼いでもいましたが・・・所得税を引かれて月に交通費込みで¥22,3万。
19,20歳の高校を卒業したばかりの月給にしては、かなり稼いでいました。

地震のあった「あの日」私はいつも働いている店舗ではなく
飲み屋街にある店舗に手伝いに行っていました。
午前5時半を過ぎてもまだ真っ暗な長崎・・・今時の長崎の日の出は遅くて、
朝7時になっても薄暗いままです。店の中は有線がかかりっ放しで
関西地区で大きな地震が起きた事など全く知りませんでした。
8時間以上ぶっ続けで働き通し・・・腰掛けて休むのは幕の内のおかずを
作り終えて、お客さんが殆ど来ない頃を見計い従業員が食べても良いメニューを
作って、厨房の隅に腰掛けて食事を摂る・・・時間は15分か20分程。
食事を摂っている時でもお客さんが来たら食事を中断して対応。
今考えると良く働いたなぁ~と思います。長い時は、11時間殆ど休みなく
ぶっ通しで働いていました。「その日」もそのいつものペースで働いていて、
大きな地震が起きた事を知ったのは朝からパートに出てくる主婦から
「関西で大きな地震があったみたいよ」とだけ聞いて、
仕事を終えバイクで家に帰りました。
家では、母Fがテレビのチャンネルを某国営放送に合わせ
地震の情報を見ていました。私は、
母Fの作ってくれた軽めの食事を摂り、
入浴して部屋で休みました。確か休む前までの死者は十数人と言われていて、
あんな多くの死者が出て・建物が潰れ・焼け落ちという惨状を目にしたのは、
夜バイトに行くために起きた時でした。
寝る前は十数人だった死者は数百,数千に増えていました。
テレビに映し出される被災地は、生まれて初めて目にした風景で
なんと言って良いのか分かりませんでした。

「その日」からもう十年・・・町並みは被災前と変わらないくらい
復興しているでしょうが、被災された方の気持ちは何十年経っても変わらないし、
時が経ち歳を重ねるにつれ悲しさや辛さが募るかもしれません。

私は26年間九州から出た事のなかったので、「自然災害」というと
台風や水害の方が多く地震は1年間に一度あるかないか、震度も3以上は
経験した事がありませんでした。そのような状況の中で生きてきた私が去年、
宮城で起きた地震に遭遇しました。5月下旬の地震は自己処理室という
浴室を利用し難い、寮生などが使う部屋で独り、シャワーを浴びていました。
なにか「ぐらぁ~と目眩がしたような揺れを感じた後、横揺れが続きました」
独り裸で・・・という状況も手伝ってか、恐怖を感じましたし、翌日からも毎日
その自己処理室を使うのですがその度にもっと大きな地震が今きたら
如何しようという、不安感はかなり長い間続きました。
7月下旬の1日の間に3回大きな地震が続いた時も、2回目まで仙台市内の
かんぽの宿にいたのですが建物の造りによる違いからか、あまり大きな揺れを
感じる事はありませんでした。

昨年末にも地震の影響でインドネシア地方に大津波が押し寄せ、
数万人の死者が出ています。一応、地震を予知する事は出来るようですが、
やはり何年何月何日何処で何時にどのような規模の地震が起きるとまでは
解りません。地震の怖さはやはり何時・どの程度の地震が何処にくるのか?
はっきり解らないところが一番怖いと思います。
地震を防ぐ事は出来ません・・・
やはり人間はいつ来るか解らない地震に怯えて暮らすしかないのでしょうか...