ababa ...ひびのおたけび

CRPS・脊髄損傷…
病は体の自由を奪い痛みで蝕む
それでも私の心は自由で在り続ける
大空を羽撃く鳥の様に...

5年前・・・・

2005-01-14 20:00:00 | 日記
五年前の今頃、私は腰椎椎間板ヘルニアで整形外科に入院している、
一、入院患者でした。

平成12年1月11日の午前中、独りでバスに乗り、入院の荷物を担ぎ
自分の脚で歩いて病院まで行きました。
この時は、検査と保存的療法やリハビリ等で1ヶ月くらいの入院で済むだろうと
思っていました。これが私の長い入院生活の始まりでもあり、結果的には世間で
障害者と呼ばれる存在になる始まりになるとは...
全く考えてもいませんでしたし、考えられる事でもありませんでした。
私もですが、M病院を紹介されたF整形外科のF医師も良くなるモノと思い
紹介したのでしょうから、今の私の状態をご存知ならばF医師は私以上に
驚かれるでしょう。

五年前の14日も金曜日で三人部屋に居た私は、骨折で入院されていた
40代の方はリハビリが開始になるという事で朝一番にリハビリ専門の棟に
なる南病棟へ転棟、膝の手術をした高校生は午前中に退院し・・・
部屋は私独りきりになりました。
午後、遅くその頃は紳士服の仕立ての内職をしていた母が納期を終え、
足りない荷物を持って見舞いに来てくれました。週末の入院はなく、
13日の午後に行った検査のミエログラフィーの後遺症が出たようで、
軽い吐気と食欲不振に襲われていました。
初めての入院で始めての週末、その上に病室にはたった一人で、看護婦の姿は
なかなか見えず忘れられているのではないかと、心配になったものでした。

私の辛かった入院生活の中でも、印象深く・私の事を理解してくれた
看護婦さんが居ました。
その人はKさんと言い、今となって考えてみると、とても縁の深い
看護婦さんでした。まず、入院した日に看護婦の行う問診もKさんでした。
その日の部屋の担当看護婦ではなかったのに...
手術した夜、バルーンカテーテルを留置しているのに、全然尿が出てこない為に
夜勤だったKさんは朝まで幾度も注射器で吸引してくれました。
突然決まった大学病院への転院の朝も病室の担当はKさんでした。
M病院へ再入院する事になり3階病棟から南病棟へ転棟する時に、説明に来た
看護婦さんもKさん。
そして南病棟に移り担当になった看護婦さんはKさんでした。
Kさんもようやく、担当になったねと笑って応えてくれました。

今、何故か私は号泣と言わんばかりに泣きながらこの文章を打っています。
独りになって入院生活の事を振り返るとやはり五年経ってもダメなんですね。
文字は出てくるけれども、頭は真っ白で入院中の辛かった事が心の中
いっぱいになるのです。声を出して泣けば母に分かるので、声を殺して涙だけが
流れてきます。自分でも何故こんなに辛い入院生活を親にも当たらず・・・
もちろん看護婦、医師など医療従事者にも当たらず、当たらないどころか、
必死に辛さを耐えて、痛みに耐え、どうなるか分からない自分の体に対する不安
これだけの状況下に居て、私の心は良く持ったと思います・・・
あまりに涙が出て頭が痛くなってしまいましたので、
今日はこの辺で止めにします。なんか支離滅裂な日記かもしれません・・・
今日の日記、すみません...