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シロガネの草子

実録 皇后の肖像 第9回 (昭和天皇と香淳皇后の新婚生活) 其の1


香淳皇后《西洋芙蓉》

シロガネの手元に皇室関係の記事のみの週刊誌の束があります。ヤフーで入手したものなのですが、そのなかに『女性自身』が連載したと思われる、香淳皇后の伝記がありました。第9回分しかありませんが、珍しいものですので、書き写します。


香淳皇后《枕の草子絵巻》

香淳皇后の伝記は確か工藤美代子さんの『香淳皇后と激動の昭和』と小山糸子さんの『皇后さま』の2冊しか世に出ていないと思います。『実録 皇后の肖像』は初めて見るものですから出版されていないのかもしれません。


香淳皇后《枕の草子絵巻》


第9回 お受けになった最高の贈り物だが・・・

皇后さま、お気に入りの姪御さん三笠宮甯子さんが、この18日、近衛忠輝さんと結婚。
それにさきだって、12月13日、皇后さま甯子さんから、お別れのあいさつをお受けになった。

去年の7月28日、婚約を発表してから、各週刊誌に、仲むづましい二人の写真が、どれほど載ったことだろう。手をとりあい、肩を抱き合った、幸福そのもののポーズで。

二人は、ホテル・オークラで挙式でのあと、翌日の飛行機でイタリアへ新婚旅行。自動車を借りて、気の向くままドライブをするという。

この現代っ子・甯子さん忠輝さん新婚夫婦を見るにつけても、皇后さまは、大きく変わっていく時代の波を、目の当たりにされるお気持ちだったろうと思われる。そして、ご自分の新婚時代を、懐かしく回想されたに違いない。

人は良く、「皇室は因襲にみち、時代に逆行している」という。

しかし、そういいきれるものではない。いまから42年まえ、皇后さまが良さまと呼ばれ、東宮さま(現・天皇)とご結婚されたばかりのころ、東宮さまが、それまで因襲の巣であった女官制度を、大きく改革なさったことを、あなたはご存知だろうか?

そして、これはまた、当時の東宮さまが、新妻・良さまへ贈った最高のプレゼントでもあった。

ある大新聞記者はいう。
「皇室も進歩しつつあるのだ。ただその速度より、国民の進歩が、早すぎる。ちょうど、速度の早い汽車から、遅い汽車を見るときその後ろに下がっていくように見えるのと同じで、われわれの目からは、どうも皇室が逆行しているようにするような気がするだけ。実はその時、その時点で、天皇も皇后もより良い皇室になさる為にご努力を続けるているのだ」

では42年まえにさかのぼって、その頃、赤坂離宮にお住まいだったお二人のご日常をうかがってみるとしよう。

東宮さま《現・天皇)の勇気ある改革

午前7時ーー宿直の女官が、ご寝所の隣りで、部屋で、良さまがお目覚めを待つ。時にお目覚めが遅れる時があり、そんなとき、女官がドアを軽くノックすることもあった。そして、遠慮がちによぶ。

「お目覚めのお時間でございます」

「はい・・・・」

良さまは寝間着の上から、豪華な刺繍の掻取を羽織って寝室を出られる。

お湯殿で洗顔。お化粧。あっさりとした薄化粧。髪のお手入れ。全て良さまは、ご自分でなさる。それから、お召しかえの所の、大きな三面鏡のまえにお座りになる。

そこは、ちょうどお雛様の台座のように、綺麗な布でふちどりをした二畳程の畳。その上でお召しかえ。普通の洋服に、ローヒールの靴。これが良さまの平常着だった。

東宮さまのお召しかえは、女官の手をわずらわせず、良さまが心をこめてなさる。新妻の、朝の楽しいつとめだ。背広をきちんと召した若きプリンスは良さまとご一緒に、18紀末のフランス風家具に飾られたお居間で、その朝の新聞をひらく。

食堂の用意がととのう。オートミールに、ベーコン・エッグ。これは東宮さまがヨーロッパご視察にお出かけになったおり、大変お気に入れられて、以来、ずっとおつづけになっている献立だった。

9時ーー東宮さまは、同じ建物の東側、ご政務をとる“表”へお出ましになる。良さまは“奥”へと呼ばれる西側のお廊下のはしに立って、お見送りされる。

東宮さまが、廊下の曲がり角で振り向き、ちょっとうなずかれる。

お二人の頬に、あたたかな微笑みがうかび、東宮さまは軽やかな足どりで、表御座所へはいっていかれるのだった。

こうして書くと、それは幸せな一般新婚夫婦の朝のひとときと、なんらかわりない。

こうした様子を、良宮さまづきの女官たち、島津治子女官長、津軽理喜子、山岡俊子、三輪もと子、青山元子、油小路起三子ら、各女官は微笑ましい気持ちで見守った。


赤坂離宮時代の女官達

大正12年12月5日、この人たちの名前が、東宮妃づきの女官として発表されたとき、国民は驚きに似た感情を味わった。

島津治子さんをはじめ、殆んどが既婚者で、母親であった。未亡人が3人、平民出身が2人。ーーそれまでのならわしで多かった京都・堂上公卿の令嬢であったのは、油小路起三子さんだけではないか。

しかも、平安このかた、典侍だの、掌侍などという職名で呼ばれてきた慣習もやぶられ、全てが普通の勤め人と同じように、自宅から通勤するという。

「女官さんといえば、おすべらかしに髪を結って、緋のはハカマをはき、男子禁制のながつぼねから、一生出られないものだと思っていたが?」

庶民たちも戸惑うのも当然。それまで宮廷の大奥につとめる女性は、13歳頃からお局の“部屋子”に上がりその世界しか知らされず育つ。ほとんどが公卿の娘で、なかには天皇のご寵愛を受け、皇子を儲けることを無上の出世と思い、ご奉公したものもあった。

東宮さま(現・天皇)は大正10年、摂政になられるとすぐ、この宮廷の奇形的な制度を一層しようとなさった。もちろん元老や、古い女官たちからは、猛烈な反対があった。しかし東宮さまは、勇気を持ってそれを断行されたのだ。

この時、宮中の側室制度は、完全になくなり、天皇家ははじめて民法上の一夫一婦制を採用した。

そして、格式や、しきたりだけを守ろうとするかつての女官ではなく、ごく普通の人間として生き方を考える、人生経験豊かな女性を、良宮づきの女官に。━━それが東宮さまの強いご希望だった。

その結果は、すぐに大きなプラスとして現れた。当時、女官の一人だった青山元子さん(子爵未亡人でその時32歳、二児の母だった)はいう。

「殿下のお身の回りのことは、私ども、それは妃殿下におまかせしようということにいたしました。殿下のお身の回りのお世話は、それから全て妃殿下がなさいましたし、私どもは、お二人きりでおいでになる時は、なるべく、お側に近づかないやう、心がけたものですのでございます」

そうした心づかいは、世の中の酸いも甘いも噛み分けた既婚女官だからこそであろう。

良さまは、人間として、新妻として、その喜びを、しみじみと味わうことが出来たのだった。

正午━━東宮さまは“表”から良さまの待つ“奥”へお帰りになる。

食堂の横に、6、6平メートル小さな台所がついていて、大膳(調理室)から運ばれてきた食事のうち、お汁など、冷えてしまったものは、このレンジで温めなおす。

それまで御所の食事に使われる食器は、全て白い磁器で、何か冷たい感じがした。新しい女官らは、「お汁は、やはり塗りのおわんで差し上げた方が、宜しいのではありませんか」と相談し、それを使うよう大膳に命じた。

お二人の前におかれたおわんからやわらかい湯気がたちのぼる。そんなささいなことが、石造りのこの赤坂離宮の、フランス古典主義様式で飾られた食堂に、新家庭らしいムードをかもし出すものだった。こうしたことすら従来の御所だったら考えられないことだった。


赤坂離宮時代の昭和天皇と香淳皇后

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