「価値観」とは、
「その対象が、自分にとってどんな意味を持つのか」
という社会レベルの概念
「アイデンティティ」とは、
社会的レベルにおいて
「自分とは何か?」が確立されたもの
「対象が自分にとってどんな意味があるのか?」という事は、
「自分は何者であるのか?」によって変わるもの
一方が無ければ他方も成り立たず
一方が変化すれば他方も変化する
アイデンティティを持たない者は、
価値観を持ちようがない
*****以上、web参照&引用文******
[親ガチャ] などという言葉が出て久しい..
なかなか[言い得て妙] である と
私には 得心できるところがあった
[物心がつく] というその時期に
漠然と感じる[違和感] のようなもの
私にはあったから..
[子ども] は 家庭(=親)の価値観の影響を受けて育つ
同時に
幼いながらに[社会性] を学んで成長していく過程で
[独自の価値観=自我] が芽生え始める..
やがて
親子と言えども 価値観が符合しなくなり
[自立心=アイデンティティ] が躍動しはじめる..
以後、
親子の価値観が乖離しはじめて
相互不理解が進むと[断絶] に陥ったりもする
私は
[断絶] とまでは言わないけれど..
親元で身に着けられた[価値観]への抵抗感が強かった
そういう場合は
親が「良かれ」と思って注いでくれた愛情を受け入れられず
後々には
そこでの[愛情過多=過保護]が
[アイデンティティ]の確立を求める際に
感謝できないもの=後悔に転じたりもする..
それは..残念なケース
ですけれども
一度抱いた負の感情を収めて
独自の[生き方=アイデンティティ]を探求していくのは
なかなか 苦労を強いられることも起こり得る..
近年、
[グローバル]という観点に基づいて
子どもを早期から
英語教育=海外留学という環境に委ねる傾向が高い..
しかし
それは ある意味
「親の価値観の押し付け」でしかない
「子育て」というものは そういうものではあるけれど..
「押し付けられた(愛情)」が
いつの日か
子供自身の[アイデンティティ]への[疑心暗鬼]に転じないよう
親は十分に配慮する必要がある..
万にひとつでも
子どもの成長する様子を[自己満足感]に終始しないで
子ども自身の[価値観]に通じていけるよう
自重しながら見守る姿勢
それこそが
親としての真の愛情ではないかな..と
こんなことを思うのは
身内のある若い親の子育てを観る中で
私自身の経験と 重ね合わせて
育っていく無垢な子どもの将来に
ふとした懸念を感じてしまうからでしょうか..