『完璧』 の 『璧』 という文字は、『壁』 ではなく、
『玉』 を 意味した 『璧』 と 書きますが、
『完璧』 とは 『傷のない玉』 のことを示していて
それは
『完全』 という意味よりも完成度の高い状態のことだそうです。
(語源由来辞典 他より)
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完璧主義(かんぺきしゅぎ, Perfectionism)とは、
定められた時間、限られた時間の内にて完璧な状態を目指す考え方や、
精神状態のことである。
このような思想を持ったものや、そのような心理状態の者を完全主義者、
もしくは完璧主義者(perfectionist)と呼ぶ。
その程度(時間に対する気配りや周囲への迷惑を顧みない状態等)によっては、
精神医学では精神疾患のひとつともされることも多い。
(Wikipedia より)
親となった喜びとは裏腹に
「親としての責任」 というものを考えるようになると、
まずは 物理的(生活の)保障という意味で
経済的な負担を課せられるのと同時に、
「人を育てる」=「社会に送り出す」 ということにおいて
なにかと試行錯誤をするようになるものです。
「子育ての環境」の一つとして「家庭」というものがあって
「両親」の価値観の影響を受けながら子供は育っていくものだ
と思いますが、
幼稚園 や 保育園 に入る頃から
他人の手による影響(刺激)を受けながら
自分で学び 自分で育っていく(=育ちの概念))という
子供にとっての「社会経験」は、案外早くから始まるもの。。。
結局のところ、
親ができることは「サポート」することしかなく、
子供を大切に思うのならば、まずは その子に寄り添い、
その子の置かれた環境に関わる人々に寄り添う・・・
そういうことなのだろうと考えてきました。
何よりも 一番ありがたかったのは、
市立保育園の先生方の折に触れた言葉のエッセンスでした^^
とくに
○ちゃんの 現在(いま) を 一緒に楽しんであげてね という言葉は、私の子育ての迷いを一掃させるものがありました 当時の市立保育園は、最高? 最低?に 汚く、 否、最低限 かつ 最大限の 衛生の確保はされてはいるものの 幼稚園のようなカラフルな教室ではなく 若くてカワイイお姉さん先生など皆無 母親たちよりも ずっと年上(年配^^;)のおばさんばかり(失礼) はじめての子供を預ける場所としては かなりの勇気を振絞って 諦めに近い覚悟がなければ とても預けられないような施設環境でした。。。 (以前、(最初の迷い・・・)にも書きましたが
けっして大げさではありません) けれども
そこからすでに
親の価値観によって選択された環境を宛がわられて
子どもは順応して育つ
・・・ということを
息子を通して 学んで来たように思います。
その経験からしても
『完璧』 なものごとなんて
まずは 事前から望むべきことではない
ということを理解し、同時に
どんな環境(状況)にあっても
自分にとって良好なものにつくり変えていく
そういう順応性を養っていければ
絶対にこうでなくては嫌だ というような
わがままな完璧主義 には陥らなくても済むような気がするのです。
その背景には 『概ね(おおむね)」』 という
いわば ざっくりとしたものの捕え方が必要なのか
・・とも思います。
それは
見る側(=客観的に見る)として、
そういう見立てで居れば、
人に多くを期待しすぎることもなく、
子育てで言うならば、
余裕をもって子供に寄り添ってあげる
ということなのかと思って来ました^^
その子育て観が 成功したか? どうか? は
未だ明確ではありませんが..
『概ね』 においては、
同じ方向性を揺ぎ無く進んでいるようですし それぞれの時期に達成する目安には至っているように思います
私の職場に 自称 『完璧主義』 を宣言している ある女性がいますが、
残念ながら
周囲の評価は芳しいものではありません
仕事の中身だけを観れば、
当然ながら大きなミスをするタイプではありませんし、
相手が望む以上の形を示してくれることも多いのですが、
周囲から敬遠されがちな存在であるという傾向があって、
彼女自身は それを
「周囲のレベルが低い」と考えてしまっているところがあり、
何かにつけて不本意な事態を強いられて来ている
・・と 考えているようなところがあります。
最終的には、
過ぎたるは猶及ばざるが如し
という 一言に尽きるのだろうかと
彼女の状況を見ながら思うところです。。。
『概ね』において『完全』ならば
『完璧』でなくても
相手が善しとすれば 善しとする
私は子育てを通して
人には寄り添い、 委ねることの大切さ
というものを
教えてもらって来た自分がいるような気がします