旭川美都を運営するいまず豪太と申します。
今日は自分自身のお話をします。
僕の子供時代(30年以上前)の話です。
子どもの頃の話なので、子どもの頃の遊び場だった神楽岡公園(上川神社)の写真を幼馴染の健ちゃんから取り寄せ散りばめました(健ちゃんありがとね)。
この文章から
故郷旭川市を離れた今も尚、
何故、旭川の魅力発信に力を入れているのか?
何故、それが文化芸術なのか?
何故、若い皆様の背中を押すのか?
そんな事が伝われば嬉しいです。
矛盾に感じるかも知れませんが小学生の頃の僕は内気で活発な子でした。
目立つ事が嫌で、常に誰かの背中にくっついていた反面、ガキ大将的な部分も否めません。
朝から晩まで野原を駆け回り、ボールが見えなくなるまで野球やサッカーをするいまず少年の心を掴んだのは、野球でもサッカーでもなく漫画だったのです。
とにかく漫画が好きで漫画ばかり読んでいたのです。
ファミリーコンピュータが発売され、皆はそれに釘付けになっていたあの頃、僕はただひたすら漫画に夢中になっていた。
読む側だった僕は次第に描く側の魅力に惹かれます。藤子不二雄A氏の『まんが道』をバイブルに鳥山明氏の『ヘタッピマンガ研究所』を熟読し自学で漫画を描き続けました。目を瞑ると物語がどんどん浮かんでくるのです。それを自らの手で動かしていく事に喜びを覚えます。小遣い(お年玉)をはたいて自作の漫画本(今でいう同人誌)なんかを作って友達に見せていました。
そんなある日、僕が漫画創作に夢中になっている事を知った父から「お前は何をしているんだ?」と訊かれました。僕は素直に「漫画家になりたい」と伝えると返ってきた言葉は
「お前にそんな才能があるはずがない」「長男だから家業を継ぐのが常識だ」
僕は一気に情熱が覚めペンを置いたのです。
夢を否定され燻っていた僕は中学生になりました。
既に母親はなく(父が嫌で出ていったので)父が仕事で年中居ない我が家は不良達の絶好のたまり場になった。
不登校の不良達(学校、学年問わず)の巣になっていったのです。
タバコ、アンパン(シンナー)は当たり前、僕のベッドで淫行をする奴もいた。喧嘩から帰還した者の治療場になる事もありました。家に帰るとガレージに盗んだバイク(尾崎豊みたい)が並んでいた事もあり、我が家の周辺をパトカーが巡回する事もあった。しばらく顔を見ない奴の事を尋ねると「あっ、あいつなら鑑別所だよ」という会話が日常でした。
漫画家への夢を諦め、勉強もする気になれず(部屋ではみんながタバコやアンパンをやってるし)燻り続ける僕を癒したのは映画でした。毎日のように近所のレンタルビデオ屋でハリウッド映画のビデオを借りては映画を見ていたたのです(中三の時に今までみた映画の数を数えたら200を超えていた)。
そもそも創作意欲の強い僕は映画製作に心を惹かれ、映画監督や脚本家に憧れるのでした。
ある日、意を決して父に映画界に入りたいと話すと
「お前にそんな才能があるはずがない」「長男だから家業を継ぐのが常識だ」
と漫画の時と同じ言葉が返ってきました。
でも今回は諦めません。
高校に上がっても何度も、何度も、何度も同じ事を訴えてきました。
「映画学校へ進学したい」
「駄目だ!お前は馬鹿か、情けない」
の繰り返し、それでも何度も頭を下げた。
自分の夢を叶える為に何度も何度も頭を下げて理解を求めた。
頭を下げた息子に父は大声をあげ、殴って終わる、こんな事を繰り返した。
父の知人や親戚に呼ばれ「お前はなんか夢があるようだが、長男は家を継ぐのが昔からの常識だぞ」と説教を食らう事もありました。
高校の三者面談で父は僕に何も伝えず「この子は長男だから家を継がせる」と断言した時、世界が崩れて終わる音が聞こえました。
結局夢は認められず、父が用意した京都の料亭に修行に行かされました。
修行に身が入る訳がなく、同期一の劣等生。休み前日のオールナイト上映が唯一の楽しみ(携帯もスマホも無い時代)。太秦のドラマ撮影を見学しては、涙を滲ませ悔しさに拳を握る日々。自学で脚本を学ぼうと月刊のシナリオ本を取り寄せ、ワープロを買い練習していましたが、結局父の言う事を聞かないといけないと思うと憂鬱になり創作が進まないのです。
五年が絶ち家業に入った僕ですが、父の勝手わがまま(多額の借金があるのに更に借金を増やそうという考え、従業員や僕の妻に対する執拗な虐め、他者へ悪口、息子(僕)の出来の悪さへの風評)に耐えられずに家を出ました。
『俺が活きている間は俺の好きにする』『借金もして好きなようにやる』『俺が死んだら店は売るなり、商売を変えるなり、好きにしたら良い』こんな身勝手に耐えられますか?
そして様々(今は言えません)な圧力から逃げるために上京したのです(上京してからも父等の呪縛により、悪夢に苦しみ鬱病を発症しました)。
※その後、父等との関係がどうなったのか?鬱病はどうだったのか?は後ほど機会がありましたらお話します。
上京したのは30の年。
友達や好きだったサークルの仲間を捨てての上京でした。
慣れない土地に苦労はしたけど、父等の暮らす旭川にいるよりはましだった。
脚本を勉強した経験を活かし小説を書き始めた。東京は小説の題材に欠かない刺激的な場所だった(と自分に言い聞かせた)。
東京での暮らしで知ったのは、同じく東京を拠点に生活する旭川出身者に文化芸術の才能を持った人が多い事です。僕は彼等と交流を始めるため関東あさひかわ人街というグループを立ち上げ交流を開始しました。彼等の活躍を世界中の文化芸術ファンに届ける為に旭川美都という活動を始めました。
旭川出身の文化人・芸術家・エンターテイナーの活躍を発信する事で、旭川市の魅力発信に繋がるよう様々な企画を始めています。
同郷の仲間とライブを企画したり、歌や動画を作ったり、パラパラ漫画を作ったり、文化芸術を駆使して故郷貢献をしています。もしかしたら創作活動をする事で子供の頃からの夢を叶えようとしているのかも知れませんね。
最近では、東京にいるという利点を生かし、地元のメディ等に情報を提供する活動も開始しました。
驚くかも知れませんが、
僕は両親に褒められた記憶がありません。
驚くかも知れませんが、
高校以前の写真が一枚も残っていません。
そう、たった一枚もです。
母に抱かれた赤ちゃん、保育園のお遊戯会、小学校の入学式や運動会、旅先での家族写真、全て無いのです。
僕は父親の始めた商売を継ぐための道具に過ぎなかったのです。
父や一族の古い考えにより夢を奪われた僕は、同じような苦しみを持った者が一人でも減るよう訴え続けています。
子供は親の私有物ではなく、個別の人権で守られた存在なのです。
子供の未来へのレールを敷く事ではなく、高い場所から世界の広さ(無限の可能性)を見せてあげる事が本当の親の役割だと信じています。
同じく家族が犯した罪で生き辛さを感じる者達も救いたいと思っています。
僕は残りの人生を故郷旭川市の文化芸術都市証明活動と、親が原因で生きる事に希望を持てない若者の救済に努めたいと思っています。
故郷旭川感謝の歌企画『雪野も花も』you-tubeチャンネル