理解としてはつまり、「神様」の存在を意識するかしないか、ではある。
「何故人々は税金を納めてくれるのか?」は、それを”神”が求めているから、ではあり。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「御用の無い方はここから先には行けませんわ」事態の真相は壁の向こう。
「倫理観とは何か?」と言う事には成るのだろうか。「人としての道理」それを護らねば成らない、という意識もまた、或いは「神の意向」それとして人間に要求されているから、ではあり。”それ”は「ご飯を食べないと死ぬ」と言う最終的には単純な物理の壁として、人間の前には制約として現れる事には成る。そう言うのには逆らわない方が、人としての欲求、それには近づく…逆にこの世界の人間の体はそう言う「神の制約」を具現化されてある、そう言う言い方も出来る。人は人であるべきで、それで有れば、問題は起きない”それ”がこの世界ではある、訳だが。
人間の性みたいなものだろうか。時速300㎞が出ていようと、届かないなら”そこ”には不足が有るのだ。
とにかく人間の欲求と、神の要求には若干差がある。そして、しかし最終的には「人間の要求の合算が神の意向」でもある。「平穏無事な生活がしたい」最終的には安定している、事こそを神は求める事になる、が。その時、人間の欲求は別の方向を向いているそれは間違いない。
つまり、神の意向を意識しても、自分の目的には届かない、訳だ。
自分の目的を達成する上では、つまりか”神”の意向を意識しつつ、目的を見据えて”それ”に対して逐次、対処しなければ成らない、事には成る。そこは各自で考えねば成らない話だ、最終的には自分のマニュアルは自分しか持ってない、筈であって。理解しすり合わせつつ避けていくのがセオリーには成る、そこで無理しても神にぶつかるだけで、良い結果はあまりないだろう。
…ただまあ、選択によっては避けようがない、そう言うのもあるが。
一応今のところ、屁理屈でも最終的には全て、自己責任には帰結していく。日常が壊されない、それを求めるなら無意味な騒乱も無理な挑戦も避けねば成らない。その上で自分の理想を如何に具現化するか?で、コストの問題は出てくる、時間を掛けるか損失を許容するか。人間の前に現れる等価な二択に答えは無く、神の導きもそこにはない。そこは人間の自己責任で選ばねば成らず、その先に現れる結果もまた、その時選んだ人間の責任には成る。そう言うのの合算がこの世界での「神の意向」と言う事には成るのだが。最後まで上がってしまうと、そこにあるのは単に穏やかな水面でしかない。
「明鏡止水の境地」それはまあ、そういう光景を意識する様、ではある訳だろう、多分。
目指しているのはその穏やかな水面である、それに至るにはどうすれば良いか?ではある。面白いか面白くないか、という…それはこの境地には無意味だ。矛盾はしている、アイディアは確かにか"ここ”から沸くのだが、その時、「面白い」と言うそれは自身の中には無かったりする。18と言う数値を22にするには?+4を足せばいい、結局「そう言う事」だ。そしてそれでしかない提案が「面白い」か?という、それは主観の問題だろうか。
そもそも、この意識に成るのが良い事か?は、謎だ。
何が起きても、成る様にしか成らない。水面に起きた波紋もやがては穏やかな水面に戻る。
そう言う物だと理解しても、目の前にある瓦礫は、瓦礫のままなのだが。