そこには大きな溝は有る。
「お金を払うのでこれを創って下さい」
それは職人だ。
「お金を払うので技術を知識を意味を教えてください」
それは先生だ。
「お金を払うので、外に居てください」
それは、いらない人。
この3種は、どれもほぼ”同じ事をしている”のである。基本的にか、「芸術家」としては、”先生”役こそが求められる、訳だが。ただ、それはつまり”いらない人”との間に、大きな溝と言うか、対立?それは常に発生する、事には成る訳だ。
現実を肯定するのが「先生」である。
それを否定するのが「いらない人」な訳で。
現実に改良点が無い、という事はほぼ有り得ない、人が増えてくる、環境が変わる、等々で状況は常に変化していくから、だ。今までは良かった物は、次の世代には否定されるモノと言うのはかなりある。その時、そこには排斥か、不満、そう言うのは必ずある訳だ。そして、そこに疑問と憤慨が行き場を探す事に。
”それ”に対して対抗する、そう言うのが「先生」ではあって。
この視点は常に、逆説的な物も含む。「否定」が無い所に、先生も要らないのだ。犯罪を犯す奴が居ない世界に、警察は要らない。”それ”が理想であるにせよ?人が増えてくれば変化も起こり、問題も発生する。そして彼らが居る事で、先生は先生としての職場、そう言うのを得る。その時、先生は生活の為に他の仕事をせねばならない、その必要は無くなる。
他の職場は、その人員を許容する必要性がない、訳だ。
いらない人は、それでも必要性?と共に、”生活は出来る”訳だ。
自身の正義を訴え、社会へ挑む、そんな絵を描き続けて。
”それ”が逆に成る可能性が、無いとは言えない訳で。
いらない人の言ってる事の方が正しい時?世界は改変を余儀なくされる。
絶対は、無い。と言う絶対と共に、世界は有る訳だが。
「そうなってしまった」感じも、不意にある。スエズ運河が貨物船座礁により閉鎖状態、それによる損失の大きさは洒落に成らない、時。何故?と言う視点の中に、社会的な問題、その発露がある、のかもしれない。「世界は改変を余儀なくされた」訳だ、既にもう、対価の支払いが「こういう形でしか」出来なくなっている、そんな理解もふとある。自身らの評価、そう言うのを下げると言うか、財産を質に入れるしかない、そう言う結果、その帰結として。
世界が、だ。
コロナ禍、という、その意味かもしれない。今まで通り!を続ける事が既に、物理的に不可能になりつつある。そう言う中で、変化は発生していく。それでも今まで通りを続ける先に、こういう損失は発生する、訳だ。そして”それを埋める”所に、変化が起こる。
多の責任を個に廻す事は出来ない。
それもそう言う、一つの変化だ。
そして創作の需要その一つに、「いらない人の居場所」そう言うのがある、のも、或いは変化。
”それ”はそう言う職場へ通じている。
そしてつまり、「不満が有る」だけで、切り捨てられる、それは無い。
一人に成っても、そこには利益の場所がある。