あげちうのブロマガ

言葉の先で死んでいった人々の声

自分にしろ、昭和の黄金期、という奴への望郷は、不意に見ているモノ、ではあって。

それと同じように、平成が黄金期だった人、それも相応に居るのだろうか。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

積み上げた自身の徒労は、何かの退路を断つというのは、ある。

 

自身の状況としては、そんな事を言っている場合では無いのだけど。改善の為には早期にその計画を実行するなりして、他者の否定を顧みずに強引に以下略、みたいなのは衝動的には解る部分。ただ現状、明確な「抑止」それが存在しない、のも或いは現実としてある、前は違う。前は誰か何かの物理的な否定、それをする存在が居た、が。今は居ない、単に以前の警告は今も生きている気がする、だけだ。以前は結果としてダメだったが、今は何処まで行っても否定は無い、自由意思は侵害できないから、ではある。

…そしてマクロでは、民主主義的に言えば一つの破綻は些細でも、他の新天地ではある訳で。それまで結構稼いでいるなどしている時、それはむしろ望まれる結果として、何かの背を押していないか?

平成はもちろん、発展は結果として無かった。

ただまあ、「枷」が物理的な物として存在した、というそこには一つの現実はある。結果的に自身ら?は「加害者」それには成っていないのだ、就職氷河期世代、そう言う感じの「一方的な被害者」である。現状、その喪失した機会、利益、或いは与えられた損害、苦痛、それへの対価を要求している状況ではある、のだが。ともかく「枷」が無ければどこかで社会への反逆行為に至り、致命的な加害を犯して夢は断たれた、かもしれない。

その「枷」が今は、不意に無い。

ちょっと注意する必要は、ある。特に独裁創作の過失に関しては少し慎重さは欲しい、かもしれない。逆もまたある。自身らへの「加害」をした人々は、自身らへの賠償、そう言う物を求められている、可能性もまあ、多々ある。自分は特に「独裁創作は売れない」それは主張している状況…それでいて何か、古い物を引っ張り出してきてなんか、してたりする訳だが。ともかく”それ”への否定は、相手にも、何かの衝動?それを呼んでしまうのかもしれない。

そこには直接的ではないにしろ、過去の過失も、もちろんあるのだろうか。

「グラディウス」でも感じる話だが、「こうすれば出来る」と、そこで言ってしまう結果、その後ろには数多の失敗者が捨てられていく事には成った、訳で。その人は前に出れたかもしれないが実際には、”それ”で席は埋まっている、のだ。そしてその場もいつまでも残る、という訳でもなく、平成に入ってゲームメーカーは多くが消えて行ってしまった、ゲームセンターもだ。何かの「責任」は不意に影の様に沸いていく、そう言うのは有るのかもしれず、そしてそこには明確な悪意みたいなものは、まあ無い。

以前の理屈で言うなら?今やってる創作、というのは、或いは「他者の利益を阻害しているだけ」かもしれない訳だが。

一応、「アダルトビデオは不要です」と言う正論の先に、それは肯定される一面はある、”それ”は言えるのだけど。

不意にか、ジャニーズ系の話はひと段落ついた、雰囲気はある、しかし。

同時に「枷」の無い今、或いはいままでで一番危険な状況、かもしれない。

ウクライナは今も、敗北は認めていないのだ。

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