深刻な問題は有る。
「ストリードは出てる?」
”それは変わってない”のだ。
何かの汚名を返上する、事は出来るかもしれない。その作品はテロ的な意図が有った訳でも、何かの侵略をしようとした訳でも無い。単純にクオリティの高い作品を創らんとした帰結でしかなく、”それ”が評価されなかったと言う事に憤りが有っただけだ。”それ”に対して、場違い感さえある否定が有った、「当たり判定の存在は理不尽だ」存在する意味が解らない、全然リアルじゃない、故にテレビゲームとは低レベルな代物である。実際には、その創作の暴走?を抑止する上で、この反論には効果があり…明確には返答し得ない物は有った訳だが。
”これ”を言っていた側は、何かの衝突の結果、敗北には成った?
結果、その作品を否定する要素、それは大分消えて、印象は改善されたのだが。
「で、オーダーは何処?」
それは変わってないのだ。
それと同じ数多の、同じような理不尽で否定された作品群はでも、やっぱり「オーダーは無かった」その欠損を、物理的に埋められない。これは何処まで上がっても消えない不足として残っていて、だから。
戦争に勝った、にせよ、得られるモノはほぼ無かった、訳で。
新たな、別の大きな否定、それが明らかになっただけで、その前に有った壁、それは理不尽だった、と言う事に成っただけで。”そこ”から利益を得る事は出来ず、感情論の帰結は正当か否か、それも微妙さはある。自由に!作られる創作は、ほぼ確実に、施政者側の苦痛にしか成らない。その前に、意図や目的を明確にした「届け出」をしてからやって欲しい、それは実際には、全体としても期待される何か、だ。同意しない、と言う事は、そこに反社会性は、やっぱり存在する事には成る。
”それ”への反発は、自身が否定し倒したモノと、帰結では同じに成っていくのだ。
「大賀さん」を設置したのは自分であり、今回か、この「当たり判定の存在が解らない」と言う憤りを、やっとか倒した原理に成ったのも、或いは事実ではあるが。だからこそか、平等な評価を適用する時、勝者側の創作もやっぱり、「オーダーは出てない」と言う欠損は指摘されてしまう。期待されたのは多分、その否定を倒す結果、自身らの創作が利益性を持つ事だ、が。それは今も多分、実現はしてない。
不安はある。
彼らの次の敵は、何処か。