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あげちうのブロマガ

空想の中に有る現実

明日からお盆、ではある。

なので”ここ”も、16日まで更新をお休みします、が。

ともかくコロナ禍、と言うモノに疑問を感じる中、様々な事情、催しが今年も中止に成る中で、どうもやっぱり「意図」には意識が向いてしまう部分は強く。専門家と言っても、WHOの決定には逆らえない、訳で。そのWHOが信用できない、という感覚はしかし、彼らの内輪には意味が無い。

医療の世界でも、セカンドオピニオン、という話は結構あった、筈ではある。それがでも、「この場合は存在しない」のだ。WHO以上の決定権を持つ医療の眼は無い。それが歪んでいても?それを判断し得る組織や権力、それは存在しない?

”これ”は最初から疑問でも有った部分だが。

その最終的な決定権は今、何処に有るのだろう?
ともかくWHOのテドロス氏の発言その他は、どうも他人毎だ。


昭和天皇が「王の権威」だった事、その結果として昭和期、日本に何かの重要な「決定権」それが集中していた可能性、その「神様」である昭和天皇が居なくなった後の混乱と、システムを護る、事を優先する先の、何かの「間違い」と「野心」その帰結として。テレビを中心にした権力構造は、その末端を何処に設定した?その時、その先に、飯塚幸三氏、という奇妙な特権的経歴を持つ、元官僚の存在はある、訳だが。彼が事故を起こした後、幾つかの技術的な「盲点」と言う様な事故が幾つか起きていて。そこに何かのパワーが働いた?それは何故?それに、彼の経歴は結構、悪夢な推測、そこに説得力は持たせてしまう。

そして「昭和を続けたい」とすれば、それは?インターネットでは無く、テレビの方に比重は向いてしまう…それはあって。

そしてそれが結局は、東京五輪の閉会式、”あれ”を呼ぶと言うのも、一つの道理としては有って。


昭和でも問題だった筈、ではある。頂点の「主観」でしか判断できない時、例え0.01%でも切り捨て、考慮されない人々、”それ”は出る。戦争にしろ、国全体で動かねばならない時、「なんで?」それは非国民だ、それは排除せねばならなかったし、それが出来た、そのパワーはでも、結局は戦後も「アメリカが核弾頭を使った」結果として”残ってしまった”訳だが。

にも拘らず、実際には「王の権威」は次の世代に移っており、”そこ”での基準は「大賀さん」テレビゲームでの決着、であり。その「今まで通り」が、その次の壁にぶつかっていて、「なんで?」何が不満だ?的に、彼ら如き少数派がその前に、壁としていたりする。

”彼ら”を轢き殺したとして、何が問題だった?
昭和期の感覚では、それは重い正論としてあり、そして今の結果かもしれず。

ともかく幸いにか、京都アニメーションの様な悲劇、それは起きなかったが。

 


使用イメージ
https://publicdomainq.net/summer-festival-fireworks-0057195/
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im10601622

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