衝動の原理は、「グラディウス」から、だろうか。
ヒット作なのだ、今も何かの指針、「面白い」それは、”ここ”を見てる感覚はある。そして、”これ”を再現出来ない、と言う何かは今も、可能性への追及を目指している、様な。
パターンの様に、この時、”誰か”を生贄に、死に追いやっていたりするのだろうか。
それで、もう、戻れなくなった、そんな。
成功体験の結果、理解?がある。
「作品の”ダメな部分”の改良を追及する先に、ヒットが」
しかし?これは主観による、のだ。その人の感覚の問題、結論では強い独裁性それがそこには有って。
”それ”が垣間見える限りは、それは今、良い物、という判定に成らない。
因果の様なモノ、か。
全く、ペーネロペーと、クスィーガンダム、その流れと言うか。
「お釈迦様の掌の上で何とかするしかない」と、「その外にこそ未来がある」そんな言葉の対立、ではある。前者は最初、後者に負けるが、結局は後者は”現実”と言う限界の前に、前者に負けていくのだ。ただ、その言葉は間違いか?そこは、重い疑念と共にはある。
始まりは、「ゼビウス」の不振から、ではある。
名作として伝わっては居る、が。これはでも、今で言う「ステルスマーケティング」の産物で、利益性その物はそれほど良い物では無かった、様だ。その、自腹買いでの成績を創ってしまったと言う行為に対して否定感はもちろんある、それは邪だ、悪だ、故に。
当時は、コナミは?「王の権威」昭和天皇、それからのアイディアの供給ルートを持たなかった、今もか…だろうか。それはネタの乗っ取りをし掛けた。コナミ作の「スクランブル」と言うゲームが似てた、と言うのも、理由には有ったろうか。”やり返す”感じでの追及が始まり、そうして、グラディウスが出来た。
結果論で、「ゼビウス」は王の権威そのオーダーを満たせなかったが、「グラディウス」は満たしていた、事により?後者は物理的なヒット、という事には成る。パワーアップと、1ミスにより全て失う様は、ちょうど戦闘機での作戦、そのイメージとして近い。
結果で、この方法論は「肯定される事には成ってしまった」訳だが。
その後を見るに、”これ”がコナミに憑りついて、次第に暗雲を齎していく事には。
結果論で、これが許されるのは「王の権威のアイディアを土台にして失敗した作品の場合に限る」訳だが、それはもう、本当に今は希少と言うか、無い。誰だって失敗する為に作品は創らない。ステルスマーケティングに鉄槌を!と言う”正義として肯定された”部分は有っても、その後のそれらは、有っても別にそう言う問題は起こしてないのだ、単に売れなかっただけ。
”それ”を、過剰に否定し叩いて乗っ取る、それは良い物では、無い。
しかし、グラディウスは大ヒットした、のであって。
コナミの名を知る或いは全てが思う事だ、グラディウスの続編はどうした。
「現実」への把握にここで、歪みと言うか、狂気、それでさえ有る物が、残った感じ。
お釈迦様の姿を見て、「全然ダメだ!」こうでしょう!?と、「自分の好きなイメージ」をそこに描いても、それは神の姿でも何でもない訳だ。あの時、しかし、これが大ヒットしてしまった、昭和天皇は敗戦を引きずっている、”それ”に対して同意さえしただろう、当時はまだ、やんちゃな子供の言う事である、苦笑で済むが。
コナミの中で”それ”は、そのまま、何かの汚泥の様に、歪んでしまった感はある?
グラディウスは、大ヒットしたのだ。
なら、正しかった筈だ。
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