あげちうのブロマガ

古い理想と今の失望する車内

日本の人口の半数以上の支持を得るという時。

大概はその半分からは、何らかの否定を受ける、という感覚だ。

昭和の感覚にしろ、まあ大統領という民主主義のフラグシップにしろ、一般論の感覚ではそれは、少し不可解ではある。大統領に、ともかく天皇陛下に、一応、総理大臣に逆らってはいけないのでは。「権力」はその領域全面に影響し、全体を動かせる物ではあるまいか?というそれがうまく行かないそれも、まあ、ごくありふれた事態。

これをもって「今は状況が変わった」というべきかは…不透明ではある。もともと、最初からかもしれない。水戸黄門にしろ、古い劇中には彼以上の権力が登場し、印籠が効かなかったという回もある。簡単に言えばそこに二人いる時、同じ車に乗っていても、運転手が右でも。必ず右の意向が優先される、訳じゃないという事、だろうか。「人間は平等である」時、最終的には二人に絞られる、あなたが自由に出来るのは?そのどっちかだけだ。

ここで、迂闊に両者の取り決めが無いと、ハンドルを誤って車は谷底、かもしれない。目的は走り出す前にきっちり決めて、それに対して進む、その両者の同意が無ければ?事故らないにしても目的地は暗闇の向こうではある。

「じゃあ一人で」

それは”本当に一人になる”考え方ではある…これ以上は、先に進むべきじゃないのだけど。

 

利益性を目指す時、今はこの「車の中の騒乱」それを避ける必要は、有る、何らかの妥協だ。走り出す前に、車内の感覚、要求、その統一は必要だし、ルート選択その他も大事かもしれない。乗ってる人々の、少なくとも走る前にあるラフプランへの同意、それは必要には成る…この場合の「利益」それは、車内が如何に騒乱なく和やかか?そこに掛かっていると言ってもいい。”そこ”にこそ知恵を使う必要がある時、運転技術、それは半分どうでもいい事だ。

・・・結果、運転手が一番割に合わなかった、としても、それはその場に座ったモノの責務ではある。

 

現在、”利益を求める時の感覚”とは、こんなイメージ、だろうか。結局、独裁は結論では「本当に一人で車を運転してる」光景でしかなく…”そこ”に発生する価値はあっても「1円」である。それはとても利益とは言えない何かだ、自由、それはそういう物かもしれない、生活するうえで、何処か何か制約は出る物だ、が。それを否定しても、結局は不足しかない訳だけど。

価値とは「同意の束」であり。

それをどれだけ集中させるか?の為に、独裁性、それは可能な限り抑止した方が良い。

車を購入、家族を載せて、彼らが求めるプランを提案か了承、要求に応じて運転手を務め、車内を可能な限り和やかに、問題を起こさず目的地まで届ける。その上で、彼らの「来てよかった」を残したまま、帰宅まで、それを続ける。

高い利益性それは今、”ここ”に有る訳だが。

それが達成して初めて、運転手の「良かった」はある、とは思うしかし。

下僕の喜びを語り出すのも、微妙ではある。

向き不向きは有るかも。

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