話題になった「リトルマーメイド」の最新作を創ったチームが解散になった、らしい。
原案を歪めてまで通す、という今風のそれに、流石に待ったが掛かった、という事か?
「ゲーム」と、「テレビ」その、立ち位置の様な物は少し明確化した?感じもする。
「ゲーム」で出た結果を、「テレビ」が報道する、訳だ。今までは何処か逆だった、テレビで報じたモノを具現化する、その可能性をゲームで検証していた、感じはある。どっちが正しい?という視点は混沌としている、ともかく施政者的には後者の方が良い、上意下達だ。しかし、それだけ考えても、ちょっと無理はある。「出来る!」と言っても、その可能性の低さに挑むのは単なる無謀だ、そう言うのは実感を伴って重い。
良くも悪くも、この前の「潜水艇タイタン」の行方不明事件、あれは一つの解りやすい結果には成った、という事だろうか。その前に、数回成功してる?というのも不幸の一つだが。「出来ると思えば出来る!」と言う、それは実際には無理はある。
だから、という訳でもないが。「民尊主義」と呼んでいるモノも、一つのゲームと言えば、そう。
それは”神”の、人々の為になるのか?が判断の分岐。
反論が無くなったらそこで終了、決定。
「私は嫌いだ」そう言うのは反論に成らない。
この条件で論戦を行い、残った主張が通る、それが民尊主義的議会政治、という感じ。多数決では、始まる前に既に決定している場合は多いが、この場合一応、「期待される議論が行われるなら」一人でも反論し得ない提案が出来れば、それを押しとおす事は出来る、状況を変える事は可能ではある。
まず、「議論」によって決定した物を、「報道」する、というのはこの時、何かの統一性は現せる。
表現として適当か?はともかく、「ゲーム」が上で、「テレビ」は下、ではある。ただゲームは如何なる気まずい結果さえ表す事があり、何のフィルタも無く報じられる事は適当ではない。故に、まず報じる内容に対しての是非は「テレビ」その方が先、ではある。テレビは、ゲームで決まった事しか流せないが、どれを流すか?に関しては自己責任ではあるがテレビの方に決定権がある、訳だ。”嘘”を報道すれば、それはテレビの責任、そうなる。決定されたモノを報道して問題が起きたらそれは、ゲームの責任。
少し、明確さは出てきた、感じはある。
ゲームシステムの是非も、それは論じられるべき議題ではある訳だが。
「多数決」は状況的に、創作者は選択するべき基準ではない。