まあ、理不尽ではある。
高い技術、美しい情景、高度な動き、感動的な音楽、しかし。
「あなた方に、そんな偉そうな事を言う資格なんか無いでしょう?」
岡田有希子を殺したくせに。
ちょっと、重い合致はある。
「少女漫画」特にか、それらを愛好した人々に眠る、理不尽と過失の自覚、か。
主観的な視点としては、「奴隷」彼らは、”その”境遇以上を求められていない。「エヴァンゲリオン世代」重い、何かの一群がある。自覚さえ有りそうな、そう言う過失の層と言うべきか、”それ”は、その「奴隷」と言う境遇からの脱却を目指し…しかし、それは出来ずにいる訳だ。
想像する理由としては全く、「逆襲のシャア」で、ハサウェイがチェーンを殺してしまった、”それ”ではある。何かの憤りをファミコンかにぶつけた時?それは岡田有希子を射殺してしまう、感じに成った、感じだろうか。その際、ファミコンは本当に敵視されていたか?は謎である、岡田有希子を殺すつもりだったのか、それとも?ともかく。
「殺すつもりは無かった」
”その”過失を、未だに打開出来ていない。
この過失がある限り、”相手”から押される一方ではある。何を創ろうと語ろうと否定される、「貴方にそんな偉そうな事を言う資格なんか無いでしょう?」それは、今も重く残る。その影響下に有る限り、その人々は総じて、罪人である。
その根っこにある物は今も、”それ”に対して不服と言うか、反論と言うか、それを試み続ける訳だが。
本来なら?批判は「ファミコンの企画者」自身が背負うべきだった、のかもしれない。
それを、集中した”それ”に耐えられなかったか、立場の弱い相手に向けてしまった、八つ当たりだ。
その標的はもちろん対処出来る筈もなく、自殺する、という最悪の選択をする。
…或いはこの結果、ファミコンは、或いは任天堂は、業界は何かのリミッターを獲得した、そう言うのは、あるのかもしれない。
スーパーファミコンにしろ、平成の任天堂ハードにしろ、奇妙さを抱えている雰囲気は、少しある。
「なんでこんな選択をしたんだ?」そんな、何か。
ただ、SONYにしろ、PS3の頃には既に、膨大な負債を抱える事には成っていて。「岡田有希子を殺した」と言う過失と、平成に入って「王の権威が変わった」事により、不満に対して何らかの対処が発生した、と言うのはまあ、ある。コンテンツの拡大に伴い人が死ぬ、という最悪は、平成では回避される様に成った?訳だが。
ただ、過失は過失として処理される様に成り、それは負債と言う形に成って行った。
という話なら、一応の辻褄は合うかもしれない。
この形で「認める」事で、それは反面教師となり得る、のだろうか。「”だから”今、独裁創作は売れないのだ」自身の過失ではある、ただ、その時、自分が抱えていた方法論は貴方が今やっている”それ”と同じだ。それはやがては人を殺す、或いはそれは、自身かもしれない。
「原理に成った人は居る」のだが。
ただ、罪には問えない。
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