最近の、自分に掛かってくる感覚の是非、ではある。
「諦めてはいけない」しかし、その前に有るのは或いはナポリ湾ではある。
ちょっと泳ぎ切るのは難しくないですか。
とは言え、漫画の中では、それは感動的な帰結として具現化したりするのだ。
漫画だから。
それに対して、そうは言えないリアリティ、感覚?それは、何かの高揚と、そしてその暴走をそこに誘引したりする。
その創作が見せた幻、希望?それは何処に有るのか。その世界に行くためには。
「漫画だから」
それは次第に、何故かヘイトと敵意、場合によっては殺意まで向けられる事に。
現状、娯楽作品に「漫画だから」それは、大前提としてはある。
”その上で”その物語の価値、それを査定する、と言う感じ。
その人が見た希望、理想?それは、現実のそれじゃないしかし。現実にそう言う事が起きたのなら、”それ”はその時は、何かの突破口を見出したりするだろう…その時まで、それは見た人々の中で、静かに眠っている。
昭和の頃は、もちろんか、こういう感覚は無かった、多分。
自覚もする部分だ、高揚し幻惑に遊ぶ中で、エンディングを迎える。夢から醒めて、不意に現実を自覚する時、戻ろうとするにしろ?”そこ”には「これは漫画です」その札が張って有る。不意に、見捨てられた様な…そんな感覚。昭和の頃は、そんな「この物語はフィクションです」を無視して突っ走る、そんな人々がブームを創りしかし、”その他”を破壊しつくして、気づくとそこは荒廃していた、様な感じに成ってしまった訳だが。
それを自覚していても、過去のその幻惑は、何かの麻薬の様ではある。
創る側に一応か、なって。”それ”がどれだけ面倒な話か?も、自覚する様には成ってきては居る。それに対して十分な対策はしてある、が。それでもやっぱり、自身にも”上”は居るのだ。不思議な位に、彼らを止める術を持たない自分は居る。スイッチが入った人々に、道理や理屈の説明は、ちょっと意味がない訳だが。
漫画だから。
その言葉はそこに有る、高揚と言うか、刺さるテーマを前にして、それに冷笑する様な、そんな何かではあるのだ。そしてそれへの反応が想像できる時、不意に何かの剣呑を感じたりもする。
未来が無い、とは思わない。
しかし、現状は果たして、ではある。カウンタ制御は良くない、思想的には、”それ”がその場に設定した「理想」を、道理が通る範囲で維持しようとする、筈ではある。カウンタを誰かが制御して強引にその理想を造ろうとしなくて良い、それは神に委ねるべきだ。
それはでも、相変わらずか、意味のない主張、という雰囲気はまあ、ある。
高揚の後の失望は、過剰な敵意の源泉に成ったりもする。
その辺今、冷静さは持てるのだろうか。
世代的な、「ブーム」を知っている人々にも。
そしてまた、”それ”に対して「つまらない」と言う感想も、また。
使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im6442284
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