状況は、レトロゲームブーム、でさえある。古いハードも微妙に脚光。
ただその時、そこには奇妙な混沌も同時に存在はする。使えるけど、使えない機械達の山。
本日のダイス
白:4,6:10
黒:1,1:x
白10 4611
それらはもう、捨てていくべきだろうか、それとも。
個人的には思う事だ、「そのハードの上で暮らしていた人が残って居る限りは、そのハードは捨てられない」だから、少なくとも40年程度は、ハードを切り捨てる事は出来ない。windowsはでも、最近はかなり切り捨てる方向に入ってはしまった。MS-DOSは、今のwindowsは、それでもまだ下位互換性を残しては居る、が。ハードはもう、FDもCDも捨ててしまった、現実はある。
不思議な光景ではある。インターネットはむしろ、そんな「ゴミ」を抱え続ける為に、今のクラウドを膨大な浪費と共に許容さえている、のだ。 ビッグデータ、とかそんなのはお為ごかしに過ぎないだろう、単に、古い記憶を抱え続ける事に固執しているに過ぎない。
インターネットに依存し許容するなら、「ハードの切り捨て」もまた、何かの方向違いには成らないのか?
windowsの古いハードその物に欠陥がある、訳じゃない。単に規格が変わってデータのやり取りが多少面倒か、或いは無理になっただけ、だ。古くはそれで、今の半分の解像度だろうと作品を作っていたし、その上で今に続く名作だってある。使えるのに、社会の権力か、そう言うのによって「不要」にされてしまった、それがそこに残る事に、多少の奇妙は感じる。
残って居るのだ、今もまだ、それはゴミにならずに。
その時代の輝きか、そう言うのと共に、それはまだ、そこにある。
商売的な”怖さ”は、少し同意は有る。古いハードは今も現役です!という事は、新しいハードは買わない、という事だ。よく言われる、ハードは一年かそこらで壊れる様に設計されてる、じゃないと次の需要が無いからだ、しかし。「正しいか?」と言われると、なんとなく間違っている気はする。
「価値」と言う、自分の把握するその視線では、それはあまり価値がない。そういうのは、続かない。残らない。
ただそれを言う説得力は、自分もまだ、持ててない気はする。
「価値が高い方を選択するべきだ」その時、価値の低いモノはゴミという事には成る、それは廃棄していい。ただ、それであってもその選択は誰が?ではある。貴方は自身の感じる「価値」が絶対だと思っているのか?そこにある真実は、40年を過ぎても解っていないのかも。
ともかくそれはまだ、不要になりつつもそこにある。
或いは社会から受けた欠損、”それ”と共に。