目的の到達点、というのが実際には少しイメージと違う、のは良くある事なのだが。
その時、最初のそれに拘るか否か、それはその人の問題ではある訳だけど。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
実際には奈落の光景かもしれないが、「自由」その様かもしれず
「ゲームを創りたい」人は、しかし最終的にはゲームを創らなくなる、感じはある。「それを創るのは現場だから」だ。いわゆる「ゲームを創る」それはあくまでも、自分でプログラムしデザインし、みたいな流れの感じではあり…実際に”それ”を商品にする過程で、プロデューサーかディレクターか、そんな境目が発生し、ともかく要求される作業を一人で全部!なんてのはちょっと非現実的だし、出来ても要らない。なんというか、「あ、面白いな」そう思ったら、その状況で作品は他人に渡してしまった方が良い…みたいなのが、今の実感ではある。そこから先に踏み込むと、”客”はただ逃げていくだけだ。
「ウィザードリィ」の成り立ちは、本当に「自分の欲しい物を作った」”それ”だったのだろうか。
もちろん?創案を他者に渡したその時点で「自分が作りたかったモノ」それは、消えていく事にはなる。それを「たたき台になった」と思うか、それとも否定された、と感じるかはまた、何かの境目ではあろうか。企画側は、そう成る前提でイメージするべきで、故にその企画は非常に曖昧で否定感に満ちている、というのはまあ、定番かもしれない。技術が有るのなら、”そこ”から踏み込み思索する先で、企画者の「あ、面白いな」が見えてきて、”そこ”に同調し得るならそれが具現化していく過程は「面白い」のだが。私見ではうまく行ったのが「グラディウス」ではある。当時はこれで問題なく利益には成った、のだけど。
今は、どうなのだろう?
ともかく?現場に十分な技術、というか観察力?アーティスティックな能力。被写体の内側まで理解し描き出す、そんな感覚が有れば、企画に問題無ければそれは期待される絵には成る、訳だがしかし。企画に不足がある場合も、現場に不足が有る事もまあある訳で。この辺、はっきりさせる上でも「ストリードの連携」と言うのを提案はした、のだが。
なんか、補助輪付けてる感じ。
そんな感じもする、そんな是非ではある。
本来?企画と現場に十分な理解か同意、それが有るのなら、企画を計るのは現場で、現場に指針を与えるのが企画、というバランスは発生する、訳だが。ともかく?旧来の体制か理解に「ストリードの連携」それは、中々に入って行かないルールではある。「どんなヘタレでも何とか成ります」それはつまり、現場をそれだけ信用してない?的な感覚かもしれないし、自分の役目を外部に丸投げしてる光景かも知れないが。
自分は、企画か現場、どっちかにしか居られないのだ。
その時、自分がどれだけ完璧にこなしても、向こうが同調してくれる、とは限らない。
遺恨を残して失敗し、損害が出て夢破れるよりは、確実性のある選択を、は企業としては言いたい話だが。
クリエイターとは、面倒な人々ではある。
不意に、企画原案。
「キングギドラの帰還」
ゴジラに負け、黄泉の世界に墜ちたキングギドラだったが。彼はゴジラへの復讐心を滾らせつつ、地獄からの脱出を目指す!
ゲームイメージは「TATUJIN」ライク。しかし最初は一首だけど、宝玉を一定数取ると首が3本まで増える。敵弾に接触するとしばらく放電しつつ(この際には周囲の敵弾を消してくれる)首が一つ減る。1首の時に被弾すると1ミス、残機制。宝玉は敵を倒すと現れたり、落ちていたりする。取得するアイテムによって攻撃手段は変化する。一応、メガクラッシュあり。ステージが進む毎に、現れる敵は小さくなっていく、感じ(キングギドラがパワーを回復して巨大化していくノリ)。それでもボスまで到達するとやたらデカい、感じで。全てのボスを倒せばゲームクリア、キングギドラは復活した!でオチ。
ちょっと先日の「侵害は3ポイントまで許容」の、もう一つの例、ではあるがしかしまあ。