それは、解りやすい一言ではある。
「社会の社員となる」時、でも貴方は余剰だったりするのだ。
労働者の自立、それは現状では非常に困難ではある、「社会を無視する訳には行かないから」だが。しかし、それはつまり?最終的には「社会と言う会社の社員に成っている」状態ではあり、”そこ”で求められる仕事をする事で糧を得る、と言うのがその正義ではある、訳だが。それが何故か、出来ない状況が出てくる。
”これ”は、間違いなく社会の不備、なのだが。
どうも、”今まで”にしろ、その理解が無い?歪みと言うか、それは少し。
理想としては、単一の会社でも有り得ない、筈だ。
その時、多くは「いくつかの部署の集合」そう言う感じではある。10位の部署に分かれていて、その部署同士が、結論では「違う部署の」需要を満たす仕事をしている。結局?自身らに不足するモノを他に求める時、自身らに不用な部分は逆にいらない、それは出来る訳で、そこで排除された人は、余所の部署に転換される、と言う感じには成る筈だ。その結果として、「社会に居られない」と言う、その事態は無い、筈ではあるが。
現実的には何故か、余剰が出てる。
この感覚その謎が、中国の問題かもしれない。理解では、その社会には「社長が居る」から、だ。その独裁性が、全体の切り捨てを創ってしまう、だから。社長の?ともかく最上位の決定は「神」に、”ここ”の理解では「大賀さん」紛争解決機構そこに委ねる、と言うそこを重視しないと、切り捨てはどうしても出る。それはつまり死を意味する…それが出るとしたら?それは間違いである。
毛沢東の、そして中国の陥った奈落、だろう。問題はそれを、今の中国が自覚しているか?そこではある。習近平主席は、最近一段とか、独裁性を強固にしている、と言う話。流石の人口としても、切り捨てて良い人間の数は意外と有限だ、「利益が出ない」それは間違いなく無視出来ない話。しかし過失を重ねる時、それは頂点に何を齎すか。
民主主義を否定する、それは解る。それも結局は利益を発生させていないから、だ。しかし?「その上だ」という先に有る、その共産主義は、もっと利益を発生させないと言う現実はあって。利益を得ようとするなら、無視出来ない「壁」はあり、その前では折れねばならない、しかし。
現状の問題を「神」に向け、神へ殺意を抱く時しかし。その人は逆に「神」になり、そしてその責任は、そこに向けていた殺意は、「神」である自身へ向いて行く。それは愚かな結果だとは思う、が。
まだ、結果が出ない事に対して語ろうとしている…そんな感覚はある。
また、”戦争”が有るのかもしれない。
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