アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

大干ばつの韓国、470億円投じた水供給施設が海水を真水にできず

2015-07-02 21:46:39 | 自然と天災


【話題】大干ばつの韓国、470億円投じた水供給施設が海水を真水にできず15年間役立たず キム・ドッキュ次長「努力していく」©2ch.net

1 :動物園φ ★@転載は禁止 ©2ch.net:2015/06/30(火) 17:27:32.04 ID:???

大干ばつの韓国、海水を真水にもできない水供給施設が15年間役立たず=韓国ネット「当時の関係者は今ごろ悠々自適」「韓国は15年前も腐っていた」
配信日時:2015年6月30日(火) 7時20分

28日、120年ぶりとも言われる干ばつが深刻となっている韓国で、数千億ウォンを投じて建設された農業用水供給施設が15年間一度も使われていないことが分かった。これについて、韓国のネットユーザーからはさまざまなコメントが寄せられている。写真はソウル郊外。

2015年6月28日、韓国・KBSテレビによると、120年ぶりとも言われる干ばつが深刻となっている
韓国で、数千億ウォンを投じて建設された農業用水供給施設が15年間一度も使われていないことが分かった。

【そのほかの写真】

韓国農漁村公社は、忠南地域の農地への農業用水供給のため、2001年に4300億ウォン(約470億円)を投じ、供給施設を建設した。洪城地域の防潮堤から約10キロの水路をつないで造ったものだが、完成して以来、一度も使われていない。完成当初は、上流から流れ込む畜産排水が原因で農業用水を供給できず、公社は汚染された水を海に流し、湿地を造成して水質浄化を図っていた。

しかし最近になって、今度は防潮堤の水門から流れ込む海水の問題が出て来た。昨年から水を
ため始めたが、塩分濃度が高く、大干ばつに見舞われた今年も農業用水としては使えない状態が
続いている。公社のキム・ドッキュ次長は「淡水化に向け努力していく」とし、「来年の農繁期
からは部分的に用水の供給を始めたい」と述べた。

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欧州の熱波、一部で気温40度に フランスでは大規模停電も

2015-07-02 21:40:05 | 自然と天災

【国際】欧州の熱波、一部で気温40度に フランスでは大規模停電も©2ch.net

1 :brown_cat ★ 転載ダメ©2ch.net:2015/07/02(木) 20:12:48.42 ID:???*

欧州の熱波、一部で気温40度に 大規模停電も
2015年07月02日 16:23 発信地:パリ/フランス

【7月2日 AFP】欧州は1日、猛烈な暑さに見舞われ、一部地域では気温が40度となった。この影響で、フランスでは停電が発生し、テニスのウィンブルドン選手権(The Championships Wimbledon 2015)が開催されている英国でも、観客の間に熱中症への懸念が広がった。

仏西部ブルターニュ地方では6月30日深夜、熱波の影響で約100万世帯で停電が起きた。翌7月1日午前にも再び発生し、約10万世帯に影響が出た。

英ロンドンで開催中のテニスのウィンブルドン選手権では、試合中の気温が大会史上最高となる35.7度となり、1976年の記録を1度強上回った。試合では、暑さで倒れるボールボーイも出ている。

また、女子の試合では、第2セットと最終セットの間に10分間の休憩時間が許されるルールが適用された。男子の試合ではこのルールが無く、批判の声も聞かれた。

猛烈な熱波が欧州を襲った2003年の夏には、域内全体で推計7万人が死亡した。ポルトガル政府によると、気温が上昇した先週末以降、死者の数は急増しているという。

域内の動物園では、動物たちの暑さ対策として、氷や冷たいシャワー、肉やフルーツ味のアイスなどが提供された。イタリアの動物園では、トッピング付きのジェラートがオランウータンに与えられたという。(c)AFP/Eric RANDOLPH

http://www.afpbb.com/articles/-/3053439

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日枝神社をなぜ源義仲が焼いたのか

2015-07-02 15:26:13 | 日記
うちにあるのは天台宗の寺から南朝天皇を守るために一緒に持参した神仏 しかし天台宗は北朝を長らく菩提樹となった機関である

うちは天台宗と真逆の立ち位置にあり嫌がらせされてきた経緯が多々出てくる

なんのことない 北朝の帰化人天皇たちと 南朝の大和系天皇の対立は永遠に終わらない

日吉神社と日枝神社は同じもの 滋賀発の神道だから 滋賀発の仏教が天台宗

そして預けておいた過去帳が焼かれた寺院は真言宗 焼かれてもちゃんと系譜をたどれるように先祖たちがキーワードを残してる

源頼朝は多田系をとてつもなく嫌い排他したほう しかしムシがいい 鶴岡八幡宮のきっかけは河内源氏なのにな

使えるとこだけは使い 名前や看板だけを利用し あとは火を付け 冤罪をかぶせ 財を奪い そういうことしてきたのが

北朝に仕える人間たちだということもはっきりしてる。

河内源氏系はうちの系譜のほうだから、頼朝にも嫌がらせされてるんだ。

源義仲が日枝を焼いたのはあたしと気持ちが一緒 よくもやりやがったなって事。

北畠顕家は公家だが、あいにく多田は武家であり 公家とバカにされることもまったくおかしい。




日枝神社(ひえじんじゃ)は、岐阜県高山市にある神社である。別名飛騨山王宮日枝神社。春の例祭(山王祭)は、秋の櫻山八幡宮の例祭とともに高山祭として知られる。

高山市の高山城下町南半分(宮川以南)の氏神である。

祭神は大山咋神。


沿革[編集]

1141年(永治元年)、飛騨国国司で三仏寺城(現在の高山市三福寺町に存在した飛騨国最古の城)城主である飛騨守平時輔が、近江国日吉神社を勧請し、三仏寺城の近くに創建した。言い伝えによれば、平時輔が狩りを行なっていたところ、一匹の老狼を見つける。これを仕留めようと矢を射たが獲物は見当たらず、矢は大杉に深くつき立っていたという。平時輔は「大山咋神が、お使いである老狼を救われたものであろう」と神の力を感じ、鎮護神として近江国より日吉大神を勧請し、日枝神社としたという。この時の大杉が、日枝神社の大杉という。

1181年(養和元年)、源義仲により三仏寺城は落城し、日枝神社も焼失した。御神体は無事であり、片野村杉ヶ平(現、高山市片野町杉ヶ丘)に移され、片野村の産土神として祀られた。1586年(天正13年)、金森長近が飛騨国に入り、高山城に入城した。1605年(慶長10年)、日枝神社を高山城の鎮護神とし、現在地へ移転した。

1692年(元禄5年)に飛騨国が天領となり高山城が廃城となった後も、高山陣屋(飛騨郡代)の鎮護神とされた。このころ、「両部習合神道」「山王一実神道」を以って松樹院が設けられ、山王権現宮と呼ばれた。飛騨国分寺との関係をもっていたという。1748年(寛延元年)、本殿が再建された。この本殿は現在移築修復され、末社の富士神社社殿として使用されている。1826年(文政9年)、真言宗仁和寺末となる。1869年(明治2年)、神仏分離により日枝神社に改称する。

1935年(昭和10年)、豪雨で裏山が崩れて本殿が倒壊した。現在の本殿は1938年(昭和13年)再建である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9E%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%B8%82)



源 義仲 (みなもと の よしなか )は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。

以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍[注釈 1]となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。

河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる[注釈 3]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2



源 義賢(みなもと の よしかた)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の次男。源義朝の異母弟。源義仲(木曾義仲)の父。

官位
東宮帯刀先生

主君
藤原頼長

氏族
清和源氏為義流(河内源氏)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E8%B3%A2



源 為義(みなもと の ためよし、-爲義)は、平安時代末期の武将。祖父が源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。永長元年(1096年)、源義親の四男として生まれる[1]。『尊卑分脈』の為義傍注によれば、父の義親が西国で乱行を起こしたため、祖父・源義家は三男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。この記述に従えば、幼少の為義は叔父の義忠や祖父の義家と共に京にいたと思われる[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9



源 義親(みなもと の よしちか)は、平安時代後期の武将。源義家の子。尊卑分脈では次男、源為義の父とされるが異説あり。
河内源氏3代目棟梁・源義家の嫡男だったが、対馬守に任じられたとき九州で略奪を働き、官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。だが、出雲国へ渡って再び官吏を殺して官物を奪ったために、平正盛の追討を受けて誅殺された。剛勇の義親が簡単に討たれたことを人々は疑い、その後に幾度も義親を名乗る者が現れている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E8%A6%AA



源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たること等から後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。
比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。
その活動時期は摂関時代から院政時代に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%AE%B6



源 頼義(みなもと の よりよし)は、平安時代中期の武将。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。

藤原登任の後任として陸奥守・鎮守府将軍となり、永承6年(1051年)から安倍氏と戦う(前九年の役)。1度は朝廷に服従した安倍頼時(頼良)を挑発して再び挙兵させる。しかし藤原経清などの離反もあり、黄海(きのみ)の戦いで大敗。その後、出羽の豪族の清原氏の協力を得て安倍氏や経清を討った。

この戦乱は陸奥への河内源氏勢力拡大のためのものであったが、頼義は戦後朝廷より伊予守に叙任されて陸奥守への再任に失敗し、清原氏に陸奥の支配権を譲る形で帰京。承保2年(1075年)に没、享年87。

河内源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請して、壷井八幡宮(大阪府羽曳野市)と鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)、大宮八幡宮(東京都杉並区)等を創建した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9



源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将。摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。
主君
藤原道兼、藤原道長

源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将。摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とする河内源氏の祖。

兄・頼光と同じく関白の藤原道兼に、道兼の死後は藤原道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。河内国に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。

甲斐守在任時の長元4年(1031年)に平忠常の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す。武勇に優れ、平維衡・平致頼・藤原保昌らと「道長四天王」、或いは「四天王」と称された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E4%BF%A1



源 満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖で、多田 満仲(ただ の みつなか、ただ の まんじゅう)とも呼ばれる。諱は満中とも記される。神号は多田大権現。

当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王[2]と清和天皇の皇孫源蕃基[3]がそれぞれ主犯と共犯であったという[4]。

左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる[5]。同4年(967年)に村上天皇が崩御すると、藤原千晴と共に伊勢に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出た[6]が、満仲のみ病による辞退を許された[7]。

安和2年(969年)の安和の変では、源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。

藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという[8]。また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない[9]。

二度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成した[10]。


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日光東照宮と天台宗 久能山神社と日枝神社

2015-07-02 15:10:29 | 神仏


日光東照宮 / 栃木県日光市 : まったり神社メモ|御朱印・参拝記録
jinjamemo.com/archives/33360866.html - キャッシュ
2015年6月12日 - 【神社情報】 □日光東照宮(にっこうとうしょうぐう) 御祭神:徳川家康公相殿神:豊臣秀吉 公・源頼朝卿旧社格:別格官幣社例大祭:5月17日・18日( ... サイズは12.5cm×18cmの 大サイズ。 ... 論争となったが、天海が主張した山王神道が採用され神号も権現に決定 し、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。



天台宗 > 天台宗について > 主な寺院
www.tendai.or.jp > ... > 天台宗について - 主な寺院 - キャッシュ
文字サイズ: 中 大 ... 三塔とは東塔・西塔・横川(よかわ)をいい、主な伽藍として東塔に は、本尊薬師如来を安置する根本中堂を中心に、大講堂・戒壇院・明王堂・大師堂・伝教 大師廟である浄土院などの建物があります。 .... 輪王寺は日光山輪王寺といい、二荒山 (ふたらさん)神社・東照宮とともに、日光の2社1寺として、日光山の運営にあたりました ...



http://banq.jp/36070
静岡 久能山東照宮 家康の最初に埋葬されたとこ
なんでこの駿河に日枝神社があるのか?? 家康が比叡山にとりつかれてるって証拠


比叡山 坊主の部 天台宗
比叡山 神道の部 日枝(日吉)神社



山王信仰 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/山王信仰 - キャッシュ
用語[編集]. 山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、 比叡山に鎮まる神を指したものである。 日吉神社・日枝神社(ひよしじんじゃ、ひえじ んじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より 勧請を受け ...


源頼朝は南朝ではなく北朝 家康は南朝寄り 日光で観光に家康を利用しただけ 過去書いたとおり

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地震

2015-07-02 15:06:42 | 自然と天災
どこだ??

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