後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた[3]。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。
明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。
後醍醐天皇の第七皇子。母は、阿野公廉の女・廉子(新待賢門院)。
女御:源氏 - 北畠親房女
女御:藤原勝子?(嘉喜門院・三位局) - 実父不詳、二条師基猶子
略歴[編集]
元弘3年/正慶2年(1333年)鎌倉幕府が滅亡し、父の後醍醐天皇が建武の新政を始めると、幼い義良は北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に北畠親房・顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かう。
建武元年(1334年)5月多賀城において親王となる。翌2年(1335年)足利尊氏が新政から離反すると、北畠親子とともに尊氏討伐のために京へ引き返す。
建武3年(1336年)3月行在所比叡山において元服を行い、同時に三品陸奥太守に叙任され、尊氏が京で敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いた。
延元2年/建武4年(1337年)多賀城が襲撃されて危険となり、霊山に難を避けたが、8月に再度上洛を始める。
12月に鎌倉を攻略し、延元3年/暦応元年(1338年)1月さらに西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破って、伊勢・伊賀方面に転進した後、父天皇のいる大和の吉野行宮に入った。
父天皇が全国の南朝勢力を結集するため各地に自らの皇子を派遣する中、9月に義良親王も宗良親王とともに北畠親房・顕信に奉じられて、伊勢国大湊から三たび奥州を目指すものの、途中暴風に遭って一行は離散し、親王の船は伊勢に漂着。翌延元4年/暦応2年(1339年)3月吉野へ戻り、間もなく皇太子となった[5]。8月15日に父天皇の譲位を受けて践祚する[6]。
天皇は尊氏に対して直義・直冬追討の綸旨を与え、11月には北朝崇光天皇を廃位するとともに三種の神器(後醍醐天皇は偽器と主張していた)を接収した。
それでも南朝はなお強硬姿勢を貫いたと見え、正平22年/貞治6年(1367年)4月に勅使葉室光資をして幕府との和睦交渉が行われたものの、天皇は武家側の降伏を条件に要求したため、義詮の怒りを買った末に和議は決裂している。この年にはもう病気がちであったらしく、翌正平23年/応安元年(1368年)3月11日子刻に住吉大社宮司津守氏の住之江殿にて崩御した[7]。享年41。
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