アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

〓新羅三郎義光(源義光)〓と〓新羅三郎義光(源義光)の曾孫とされてる大内惟義(平賀惟義)〓

2015-07-08 23:08:09 | 日記

〓新羅三郎義光(源義光)〓

源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(加茂二郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。

生涯[編集]
左兵衛尉の時、後三年の役に長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦していると知るや、完奏して東下を乞うたが許されず、寛治元年(1087年)に官を辞して陸奥に向かった。

義家と共に金沢棚で武衡・家衡を倒して京に帰り、刑部丞に任ぜられ、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔、従五位上に至った。戦後、常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていく。嘉承元年(1106年)、遅れて常陸に進出してきた甥の源義国(足利氏や新田氏の祖)と争って合戦に及び義国と共に勅勘を蒙る。

同年の義家の没後に野心をおこし、河内源氏の棟梁の座を狙った。

その手段として、兄弟の快誉と共謀し、義家の後継者として源氏の棟梁となっていた甥の源義忠、及び次兄の義綱の両者を滅ぼす算段を練った。まず郎党の藤原季方を義綱の子の源義明の郎党として送り込み、次いで長男義業の妻の兄の平成幹(鹿島三郎)を義忠の郎党として送り込んだ。
そして天仁2年(1109年)の春、義光は季方に義明の刀を奪うように命じ、その刀を成幹に与え、義忠暗殺の密命を下したのである。その結果、義忠は闘死(源義忠暗殺事件)。その現場に残された刀が源義明のものであることから、義忠暗殺の嫌疑は義明とその父である義綱に向けられる。

そして、義綱一族は、義光の勢力圏である甲賀山で義忠の弟で養子である源為義によって討たれるのである。だが、実際に若年の為義が指揮をとっていたわけではなく、その背後には義光がいた(源義綱冤罪事件)。

また、義綱の郎党の藤原季方、鹿島三郎も義光(及びその指示を受けた園城寺の僧で快誉も含む)らの手によって殺害され、事件の真相は闇の中へ消え行くはずであったが、その真相が発覚し、義光は勢力の強い常陸国に逃亡せざるを得なくなり、源氏棟梁への野望は潰えた。

最期については大治2年(1127年)10月20日に三井寺で死去したとする説が有力。病死とする説と殺害説がある。殺害説では、自身が暗殺した義忠の遺児・河内経国に討たれている。義忠の暗殺は源氏の凋落を招き、源氏の凋落は院政の陰謀が原因であるが、源氏内部での暗闘も衰退の原因であり、その中心人物は義光であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%85%89

→ほんとーに滋賀から出てくる人間はゲスではかりごとばっかで、他人のものを横取りすることばかりやって、ガタガタにぶっ壊す人間ばかりだな。アタマがおかしい、ろくに統治もできないのに。


〓新羅三郎義光(源義光)の曾孫とされてる大内惟義(平賀惟義)〓

大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・鎌倉幕府御家人。清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。

治承・寿永の乱[編集]
惟義が史料に姿を現すのは『延慶本平家物語』では義仲追討戦、『吾妻鏡』では一ノ谷の戦いが初見であり、元暦元年(1184年)以前の動向は全く不明である。『玉葉』治承5年(1181年)7月1日条は、横田河原の戦いで平氏方の城助職が反乱軍に惨敗した記事であるが、反乱軍は「キソ党」「サコ党」「甲斐国武田之党」の三軍編成だったことが記されている。

「サコ党」は信濃国佐久郡を本拠とする平賀氏と推察され、内乱前期の平賀氏は独立勢力として木曾義仲や甲斐源氏などと共同戦線を張っていたことがうかがえる。

寿永2年(1183年)、源頼朝は義仲を討つために信濃に出兵し、碓氷峠を越えて信濃国佐久郡に入り、依田城を落して善光寺平で義仲軍と対峙している。

信濃における重要拠点といっていい佐久地方がほとんど無抵抗で制圧されていることから、この時に平賀氏は義仲から離反して鎌倉の傘下に入ったと思われる。

結果的に義仲の長男・義高と頼朝の長女・大姫の縁組という頼朝に有利な条件で和解が成立し、東国における頼朝の優位が確立した。

それまで姿を現さなかった平賀氏が突如として鎌倉政権下で武蔵守という枢要な地位を与えられたのは、義仲からの離反に対する見返りだったとも考えられる。

惟義は一ノ谷の戦いの後に、伊賀国守護(惣追捕使)に補任される。伊勢平氏の権力基盤の一部であった伊賀を抑える役割を期待されての人事と思われる。同国大内荘(九条家領の荘園)の地頭職を兼ねたともいわれ、このころから大内冠者と記されるようになる。

頼朝側近として[編集]
元暦2年(1185年)6月には頼朝が多田行綱から没収した摂津国多田荘および荘内の在地武士(多田院御家人)の支配を命じられたほか、同年(文治元年)8月の除目で頼朝の推挙によって受領に任命された源氏一門6人のうちの1人[1]として相模守に補任される。

また同年9月に鎌倉の勝長寿院で執り行われた頼朝の父・源義朝の遺骨葬送では父義信と惟義、源頼隆の3名のみが遺骨への近侍を許されている。これは平治の乱で、父義信が義朝とも戦い、頼隆父の源義隆が戦死したという所縁による。父義信は幕府行事の供奉交名において基本的に首位を占め、門葉筆頭として頼朝の信頼を得ていた。

文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍した。翌建久元年(1190年)の頼朝上洛および同6年(1195年)の再上洛にも随行した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E7%BE%A9

→これ見たらわかるだろうが、裏切りで財を築いた最低最悪の血統だ コレ



伊勢でどんなにうちの血統にかぶせても、あたしは自分の血が逆上するためまったく関係がなく、はっきり言うとうちの血統を殺しまくった仇に当たる。たくさん、ネットに嘘を書きまくってるのは神道関係者だろうが、あたしはその神道関係者が百済移民の子孫たちだとはっきり提示もしている。


今 こういうことされたら、一般大衆はどう思うと思う??

一般大衆が自分たちの目で真実を見極めようとしている。そして、あたしは自分の先祖たちが消された理由や、押し付けられた借金の紙きれを見るたんびに怒りがおさまらない。


あ、そして さいさん 親房公は伊勢に行ってはいけなかったという理由

読者はうすうすかんづいてきたんじゃないだろうか。



あと伊勢の裏切りは、昭和に昭和天皇ヒロヒトの伊勢参りあと第二次世界大戦が始まってるという現実もある。つまり第二次世界大戦のホロコーストを伊勢では知ってたんじゃないかとあたしは思ってるから。

昭和天皇ヒロヒトは朝鮮人なんだぞ?? それを天皇即位という儀式に関わったのも伊勢だ。

いくら勉強が嫌いで社会人になった成人でさえ、あたしの言いたいことがうすうす、わかってるはずだ。下手したら、ちょっとマジメに歴史とか学校の勉強してる子供たちならば、あたしの言い分がわかるレベルの内容だから。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行綱の手を離れた多田荘は、摂津国惣追捕使(守護)となった大内惟義に預けられ??

2015-07-08 22:57:22 | 日記

ほんで誰コイツ??

行綱追放後の多田荘[編集]
行綱の手を離れた多田荘は、摂津国惣追捕使(守護)となった大内惟義に預けられ、また多田源氏の累代の家人であった荘内の武士たちは行綱に従った者を除いて多田院御家人として再編成された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E8%A1%8C%E7%B6%B1

大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・鎌倉幕府御家人。清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。
惟義が伊賀国に赴任した時期に大内姓を称したが、後に戦国大名となる周防国の多々良姓大内氏とは関係がない。


凡例 大内惟義
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 未詳
死没 未詳
改名 平賀惟義、大内惟義
別名 大内冠者
官位 正四位下、修理権大夫、相模守、美濃守
武蔵守、駿河守、院昇殿
幕府 鎌倉幕府、御門葉、伊勢・伊賀・越前・美濃
丹波・摂津 6ヵ国守護
主君 源頼朝 → 源頼家 → 源実朝
後鳥羽上皇
氏族 清和源氏義光流(平賀氏)
父母 父:平賀義信、母:未詳
兄弟 大内惟義、平賀朝雅、平賀朝信、平賀隆信、小早川景平
妻 正室:藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)
子 惟信、塩川惟親、家信、惟家、義海、四条隆綱室

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E7%BE%A9


大内って移民だろ 確か

結局 横恋慕して横取りした盗賊強盗軍団ってことじゃねーか

詐称してんじゃねーよ 嘘ばっかり

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちなみに長野方面 もう感覚でわかってるんじゃないの??

2015-07-08 22:41:37 | 日記
あと、あたし 過去消されたブログに書いてたはずだよ

あたし 長野となんかあるのか そこが懐かしい感じがするって。

ここまで調べる前に 自分の直感で 木曽 白馬村 あっちの村あたりに 

なにかを感じるって。

あと、あたしがそっちの景色を見てぱっとわかったことは

地蔵だ 地蔵。



木曽義仲は たぶん義経に逃がしてもらって こっちに落ち延びてたんだ たぶん。

だとすると、うちの系統が長野の村にゆかりがあったという事も繋がるし

前に懐かしいと感じたその感覚が間違ってなかったと言えるわけ。



だから 源氏とひとくくりにしても 実際は源氏をなのった系統には

百済系と大和系がいたってこと。



あと共通してんのは、昔っからうちの系統は追われて消されてる いろんなものを。



そして木曽義仲が福島に逃げてきていたとして、そこに急に住み着いたのかとなれば

それ以前にここらの土地に根ざしていた南朝がいたんだ。

そもそも、大和朝廷の製鉄工場があったぐらいだからな。



時代にして平安時代。

つまり 大和朝廷は都を捨ててたってこと。

だから平城京も平安京も 大和の有力者たちは都にいない。

だからそれをそこにいた連中が指揮とって、勝手に権力闘争はじめた感じ。

一夫多妻で豪族増やして、金をどんどん仏像や都市つくりにつぎ込んで移民まみれにした

連中が移民たちだってこと。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源平合戦の平氏落人村

2015-07-08 21:12:25 | 日記

徳島県の去年 あたしが見つけた三好町 そこもそーだったのか??

あと熊本県八代市

宮崎県東臼杵郡椎葉村

愛媛県の村

平家の落人村では胡瓜の栽培は禁止されてるって??

餅をつくことも禁忌??



ちなみにその源平の戦い

あたしの意見で整理してみるから

まず 源頼朝に嫌がらせされて潰された系統だから うちは

その頼朝筆頭の源氏軍団ならば、うちの系統はこの源平合戦の敵でも味方でもないと

思ってるのが今の直感







治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。

源平合戦の中枢源氏

源頼政←勝手に編集好き勝手してるんだな うちとコイツ関係ないから まして嵯峨源氏も関係がない こんなヤツが頭領の軍隊だったら、なおさらうちと関係なし 詐称しまくるのいい加減やめらんないのか??
源 頼光(みなもと の よりみつ)は、平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。諱はしばしば「らいこう」と有職読みされる。

源頼朝←百済王朝を作る担い手となって殺されたバカ男 源頼朝 頼朝の経歴さえ疑わしい
河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。

源範頼
源義経
源希義†
源義基
源光長
安田義定


はい、ここまでさらっと見たら源平合戦はね 百済王朝サイドの百済守護したい近江京の源氏と、鎌倉に百済仏を建て、そこに観音を勧誘した八幡太郎及び父親の源満仲系統を殺しに動くという最低な源頼朝サイド このひとくくりが源氏側でうちとは関係ないんですよ やっぱり

その証拠に木曽義仲はどちらも敵にしているじゃないか
比叡山に対し源氏につくのか平氏につくのかと問いただし、法住寺を焼いてるようだから。

法住寺
法住寺は日本の京都市東山区にある天台宗の仏教寺院である。Wikipedia

聴いて、わかる。木曽義仲 法住寺合戦 - 古典・古文 解説音声つき
koten.kaisetsuvoice.com/yoshinaka15.html - キャッシュ
法住寺合戦. 水島の合戦に敗れ都にもどった義仲は、後白河法皇がロコツに自分を 排除しようとしていることを知りました。後白河法皇は頼朝とひそかに連絡を取り、東海道 、東山道、さらに義仲が切り取った北陸道まで頼朝に与え、上洛を促していました。




ほんとーにバカじゃねーか コイツらと言いたい事項

多田 行綱(ただ ゆきつな/源 行綱、みなもと の ゆきつな)は、平安時代末期の武将。摂津源氏の流れを汲む多田源氏の多田頼盛の長男。官位は従五位下・伯耆守。
摂津国多田の地に武士団を形成した源満仲(多田満仲)より数えて八代目に当たる多田源氏の嫡流。

平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、頼朝に多田荘の所領を没収され行綱自身も追放処分となった。この原因には一ノ谷の戦い以降、義経と深く手を結んでいたであろうことや、清和源氏の嫡流を自認した頼朝が先祖・源満仲以来の本拠地である多田荘を欲したことなどがあったと考えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E8%A1%8C%E7%B6%B1




わかるか この歴史の確信部分

源頼朝は源満仲の血統を自分らで撃退しつつ、満仲のものをどれもこれもほしがるというこれが源平合戦の中枢にある。

平氏は桓武平氏 つまり百済血筋の百済教武士隊

源氏の源頼朝は百済系天皇を利用した源氏 満仲の作った名声やすべてを自分のものにしようとした源氏滅ぼしのバカ中枢だから。



ほんでうちは、満仲の血統。だから頼朝サイドから嫌がらせを長い間受けている。これが事実。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬神信仰したいならば

2015-07-08 01:50:09 | 日記

犬を大事にして、その思いを思い出を自分で信じていけばいいだけ。

あえて祟り神みたいに作って神様にしようだなんていうのは日本人の道徳倫理ではない

とあたしは思う。

うちの先祖の遺品にも犬の写真がいくつかあったが、たくさんの犬を飼ってたわけでは

なく、猟に使うセッターとポインター系統 たぶん2頭くらいだ。

あたしも犬を飼っているが・・・。

それを死んだら普通に弔ってやるだけ。それで犬神信仰になってる。

先祖の墓参りをする。これもじゅうぶん 弔いと信仰の形になってる。

日本では昔からオオカミ信仰があったんだけど、そのうちの片割れは大事にしてきた

信仰と、もう片方は鬼畜に狩った恨みを鎮めるための信仰だろう。

あたしは大事にして神様にしてやるつもりだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする