アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

これが日本の天皇だって?? 朝鮮人に乗っ取られてますってみんな教えてもらってないんだよ

2015-07-04 22:15:24 | 皇室問題

ほら コイツ 名前なんつったっけ?? いちいち忘れるわ 気分悪すぎて

コイツが香淳の父親だったっけか??

昭和天皇の父親は大正天皇じゃなきゃ 血筋おかしいもんな





キリシタン島津一家の娘だ ↓






その旦那 昭和天皇ヒロヒト 我が家では朝鮮人と昔から教えられてる↓




この夫婦の子供 今上天皇アキヒト↓ 朝鮮人の子 家庭教師がキリシタン










その嫁 キリシタン 美智子↓




皇后美智子 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/皇后美智子 - キャッシュ
皇后美智子(こうごう みちこ、1934年(昭和9年)10月20日 - )は、今上天皇の皇后。前 姓は正田(しょうだ)。皇室典範に定める敬称は陛下。日本赤十字社名誉総裁、国際 児童図書評議会名誉総裁。
略歴 - 外国訪問 - 逸話 - 発言


天皇家とキリスト教など
www.millnm.net/qanda/empp.htm - キャッシュ
今上天皇が皇太子だったころ、家庭教師にヴァイニング夫人というクエーカー教徒を選ん でいますし、お后には雙葉、聖心と一貫してキリスト教系の学絞で学ばれた美智子様を 選んでいます。三谷隆信侍従長、浜尾実、杉井侍従、入江侍従、村井長正など、侍従に ...



学習院もキリシタン養成校

もちろん創価学会もキリスト教養成校



川島紀子 民出身もキリスト信者

大和田雅子 民 出身もキリスト信者




このキリシタンが宮内庁にもたくさんいる

その結果がコレ↓









これ バカ宮内庁 まず借金返してモノ申せ

2015-07-04 20:24:00 | 皇室問題

あとな 明治天皇は二人いたのは確実だと何回も書いてるが

うちの家系で昭和天皇は朝鮮人 これで確定してんだ お前らがどんなに隠しても

その子供で、キリスト教徒の島津の香淳皇后という女が母親で、キリスト教徒の家庭教師が

今の今上天皇アキヒトを教育した以上 日本とは関係ないキリシタン教育の軍団が

国家予算を勝手に掴んで仕事してるフリしてるのも確定してんだ。

あとうちの先祖たちが出した金を返せ。

あと宮内庁廃止。

あとキリスト教のインチキ皇室も廃止。

キリスト教の系列でまがいものの血がどんどん日本人の金を詐欺って日本人は自分で生活が

できなくなる。




元宮内大臣「明治天皇は孝明天皇の皇子ではなく、後醍醐天皇の子孫」 [転載禁止]©2ch.net [509143435]

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2015/07/03(金) 02:53:58.55 ID:LtfzbDGU0 ?2BP(1000)

いわゆる、「明治天皇すり替え説」は古くからあったようだ。土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が昭和4年(1929)の2月に、三浦芳聖氏に語ったという話に注目したい。
三浦氏は自らが南朝正統の皇胤であることを主張した人物で、三浦氏の『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』という著書にその内容が書かれているらしい。
この本は自費出版されたもので手に入れることは難しそうだが、次のURLに田中光顕(下画像)の証言内容が引用されている。重要な部分を紹介しよう。

「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。
現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』と前置きされて、

『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、
明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、
中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、
孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、

実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、
毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、
やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。
これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。

2 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2015/07/03(金) 02:55:02.07 ID:LtfzbDGU0 ?2BP(1000)

吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。
元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、
西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、
遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。

この証言内容をどの程度信じるかは、読む人によって異なると思うのだが、
かなり具体的なことを語りながらも結構筋が通っていて、私にはあまり嘘っぽく感じられないのである。
このような重要なことを維新の元勲が軽々しく語るのはおかしいとも思えたりもするが、その点は読者の判断にお任せしよう。
田中の述べたことを要約すると、長州は南朝末裔の大室寅之祐を匿っていて、
薩長は「南朝革命」を大義名分にして「薩長同盟」を結んだということである。

「南朝」という言葉がいきなり出てきて戸惑った人も多いと思うが、建武三年(1336)に足利尊氏が光明天皇を立て、
後醍醐天皇が吉野に逃れて、京都の「北朝」と吉野の「南朝」に皇室が分裂してしまう。
それから、それぞれが正当性を主張する時代(南北朝時代)が元中9年(1392)まで続くことになるのだが、
その後も南朝の子孫がずっと生き延びていてそのうちの一人が、長州が匿っていた大室寅之祐だと述べているのだ。
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