相馬義胤~伊達政宗に対抗した奥州屈指の戦国大名~
1 :人間七七四年:2013/12/17(火) 07:37:22.91 ID:SWe67ZaC~相馬義胤の主な戦歴~
永禄06年(1563年)【貝殻坂の戦い】・・・・相馬義胤○-●草野直清・青田顕治
永禄07年(1564年)【北目の戦い】・・・・・・相馬義胤○-●粟野宗国
永禄09年(1566年)【小斎城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄09年(1566年)【金津城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄09年(1566年)【金山城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄11年(1568年)【小島の戦い】・・・・・・相馬義胤△-△伊達輝宗
元亀元年(1570年)【丸森城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
天正03年(1575年)【座流川の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達軍
天正04年(1576年)【駒峰城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達輝宗
天正04年(1576年)【冥加山の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗
天正04年(1576年)【坂本城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正06年(1578年)【権現堂の戦い】・・・・相馬義胤△-△岩城常隆
天正09年(1581年)【子深田の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗
天正09年(1581年)【矢野目の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正09年(1581年)【谷地の戦い】・・・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗・政宗
天正10年(1582年)【金津城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正11年(1583年)【丸森城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正12年(1584年)【金山城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正16年(1588年)【三春城の戦い】・・・・相馬義胤●-○田村月斎
天正16年(1588年)【宇都志の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達軍・田村軍
天正17年(1589年)【常葉城の戦い】・・・・相馬義胤○-●田村軍
天正17年(1589年)【鳥の海の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正17年(1589年)【坂本犀鼻の戦い】・・相馬義胤△-△伊達軍
天正18年(1590年)【大沢の戦い】・・・・・・相馬隆胤●-○伊達軍
天正18年(1590年)【蓑首城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正18年(1590年)【小豆畑の戦い】・・・・相馬隆胤●-○伊達軍
相馬義胤(そうま よしたね)は陸奥相馬氏第16代当主で小高城城主。
武勇に優れ義侠に富み、父・盛胤と共に伊達輝宗・政宗父子の宿敵として知られる。
相馬氏と伊達氏は親戚でありながら長年にわたって敵対関係にあり、
天文の乱・伊達稙宗隠居領争い・田村清顕後継争い等で激しく戦った。
義胤の領地(陸奥国行方郡・宇多郡・標葉郡)は現在の福島県相馬郡(南相馬市・相馬市・新地町・飯舘村)
および双葉郡の一部(浪江町・双葉町・大熊町・葛尾村)に当たる。
この浜通り北部一帯は東日本大震災では地震・津波・原発事故により大きな被害を受けたが、
相馬武士の子孫達は逞しく復興を進めている。
また義胤も行った平将門以来の軍事訓練でもある相馬野馬追(そうま のまおい)は、
今も伝統の祭りとして毎年行われている。
1 :人間七七四年:2013/12/17(火) 07:37:22.91 ID:SWe67ZaC~相馬義胤の主な戦歴~
永禄06年(1563年)【貝殻坂の戦い】・・・・相馬義胤○-●草野直清・青田顕治
永禄07年(1564年)【北目の戦い】・・・・・・相馬義胤○-●粟野宗国
永禄09年(1566年)【小斎城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄09年(1566年)【金津城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄09年(1566年)【金山城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄11年(1568年)【小島の戦い】・・・・・・相馬義胤△-△伊達輝宗
元亀元年(1570年)【丸森城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
天正03年(1575年)【座流川の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達軍
天正04年(1576年)【駒峰城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達輝宗
天正04年(1576年)【冥加山の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗
天正04年(1576年)【坂本城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正06年(1578年)【権現堂の戦い】・・・・相馬義胤△-△岩城常隆
天正09年(1581年)【子深田の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗
天正09年(1581年)【矢野目の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正09年(1581年)【谷地の戦い】・・・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗・政宗
天正10年(1582年)【金津城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正11年(1583年)【丸森城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正12年(1584年)【金山城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正16年(1588年)【三春城の戦い】・・・・相馬義胤●-○田村月斎
天正16年(1588年)【宇都志の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達軍・田村軍
天正17年(1589年)【常葉城の戦い】・・・・相馬義胤○-●田村軍
天正17年(1589年)【鳥の海の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正17年(1589年)【坂本犀鼻の戦い】・・相馬義胤△-△伊達軍
天正18年(1590年)【大沢の戦い】・・・・・・相馬隆胤●-○伊達軍
天正18年(1590年)【蓑首城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正18年(1590年)【小豆畑の戦い】・・・・相馬隆胤●-○伊達軍
相馬義胤(そうま よしたね)は陸奥相馬氏第16代当主で小高城城主。
武勇に優れ義侠に富み、父・盛胤と共に伊達輝宗・政宗父子の宿敵として知られる。
相馬氏と伊達氏は親戚でありながら長年にわたって敵対関係にあり、
天文の乱・伊達稙宗隠居領争い・田村清顕後継争い等で激しく戦った。
義胤の領地(陸奥国行方郡・宇多郡・標葉郡)は現在の福島県相馬郡(南相馬市・相馬市・新地町・飯舘村)
および双葉郡の一部(浪江町・双葉町・大熊町・葛尾村)に当たる。
この浜通り北部一帯は東日本大震災では地震・津波・原発事故により大きな被害を受けたが、
相馬武士の子孫達は逞しく復興を進めている。
また義胤も行った平将門以来の軍事訓練でもある相馬野馬追(そうま のまおい)は、
今も伝統の祭りとして毎年行われている。