という物言いを知ったのは、『眉月の誓』を読んだ高校生の頃だが、今が実体験。
**読書記録**
『拾遺和歌集』 (岩波文庫)
今日は巻第十四 恋四を読了、巻第十五 恋五の途中まで。
忘らるゝ身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもある哉 右近
小倉百人一首に入ってる。
これは相手への同情なのか、皮肉なのか、二通りの解釈があるらしいが、どちらを取るかは、人によって違うだろうな。
私は、皮肉と見た。
涙河底の水屑となりはてて 恋しき瀬々に流こそすれ 順
源順(したごう)。
嘆つゝ独寝る夜のあくる間は いかに久しき物とかは知る 右大将道綱母
小倉百人一首に入ってる。
この人、王朝三美人の一人とうたわれているほどの美貌の持ち主(但し当時の美男美女の基準は「糸目のような一重瞼で下ぶくれ」。グレート義太夫とか、オ●ム真●教の教祖とかが、該当するか)だが、兼家の側室になったことで運が尽きて、全てがパーになった気がする。
息子(道綱)も、パッパラパーだったらしいし。
『蜻蛉日記』も読んでみたいと思ったんだが、愚痴ばかり読まされるのかと躊躇して、早や十数年経った。
あはれとも言ふべき人は思ほえで 身のいたづらに成ぬべき哉 一条摂政
小倉百人一首に入ってるが、そこでの人名は「謙徳公」で、藤原伊尹(「これただ」又は「これまさ」)のこと。
本格的に『拾遺和歌集』を読む前に、実は巻末の初句切れ索引を利用して、小倉百人一首の和歌に前もって付箋を貼ったのだが、この和歌はすっかり忘れてた!
注釈読んで、愕然としたわ。
ついでに、中納言朝忠の「逢ふ事の~」もすっからかんに忘れてた!
かき曇り雨降る河のさゝら浪 間なくも人の恋ひらるゝ哉 人麿
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