今日は「北海道立近代美術館」で先般の【「琳派×アニメ」展 ~尾形光琳、神坂雪佳から鉄腕アトム、リラックマ、初音ミクまで~】鑑賞の際に時間の関係で回れなかった【「近美コレクション」越境者パスキン/現代ガラスのオノマトペ/片岡球子「面構」シリーズ/新収蔵品展】の鑑賞です。
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「北海道立近代美術館」で3月23(土) 〜6月16(日)の会期で開催中です。
【越境者パスキン】 ![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/99/8148302b61c4d1a6aa268d4077badd1b.jpg)
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カフェ「ル・ドーム」のジュル・パスキン(1910年)。
ジュル・パスキン(1885~1930)は、淡い色彩とやわらかな線による女性像で知られるエコール・ド・パリの画家です。社会の矛盾を諷刺的に捉えた素描や、官能的あるいは親密な雰囲気の女性の姿を描出した油彩画を残しています。
ブルガリアに生まれたパスキンは、幼少期から青年期までをルーマニア、オーストリア、ハンガリー、ドイツで過ごし、20歳でフランスのパリに移住します。その後アメリカに渡りアメリカ国籍を取得しますが、やがてパリに戻ってきます。また、生涯を通じてよく旅をし、ヨーロッパ各地のほか、アメリカ各地やカリブ海諸国、北アフリカにも足を延ばしています。
スペイン系ユダヤ人の家に移住者の子として生まれ、その家族とも後に関わりを絶ち、拠点をたびたび変えて生きていたパスキン。作品からは、居を構えた都市の喧噪や人間模様とともに、旅先ののどかな空気も愛していたことが窺えます。生涯をよそ者として生きたパスキンは、観察者として生きたとも言えるでしょう。
ブルガリアに生まれたパスキンは、幼少期から青年期までをルーマニア、オーストリア、ハンガリー、ドイツで過ごし、20歳でフランスのパリに移住します。その後アメリカに渡りアメリカ国籍を取得しますが、やがてパリに戻ってきます。また、生涯を通じてよく旅をし、ヨーロッパ各地のほか、アメリカ各地やカリブ海諸国、北アフリカにも足を延ばしています。
スペイン系ユダヤ人の家に移住者の子として生まれ、その家族とも後に関わりを絶ち、拠点をたびたび変えて生きていたパスキン。作品からは、居を構えた都市の喧噪や人間模様とともに、旅先ののどかな空気も愛していたことが窺えます。生涯をよそ者として生きたパスキンは、観察者として生きたとも言えるでしょう。
1階「越境者パスキン」の展示ではパスキンの短い生涯を主要な「越境」でパートに分けて夫々の時代の作品と画家の生活を解説しています。理解が進む『読ませる解説』なので長くなりますが紹介します。まずはパスキンの生涯を象徴するような作品《放蕩息子》です。
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ジュル・パスキン《放蕩息子》1922年。
パスキンと家族との仲は、良好だったとは言えない。プカレストに戻ったパスキンが娼館に通い始め年上の女主人と恋仲になると、父との仲は悪化。そのかたわら娼婦をモデルに絵を描き、娼館通いは生涯を通じて続くことになる。1902年、17歳の年に家を出た。以後、1913年に母の葬儀のためにプカレストに戻った以外は、二度と家族の元に戻ることはなかった。兄のジョセフ以外の家族とは絶縁している。
「放蕩息子」は、パスキンが繰り返し取り上げた画題のひとつで、新約聖書中のたとえ話。父から財産をもらった息子が 父の元を去っ放蕩のの限りを尽くした後、貧困に陥って罪を悔悟し家に戻ると、父は喜んで息子を迎え入れたというもの。改悛と赦しを説く物語である。娼婦とともにいる姿や父の元への帰還の場面などを、パスキンは油彩、水彩、版画で表現している。画家は、自身の人生と重なる部分がある一方で、異なる結末を迎えるこの物語を複雑な思いで描いていたのだろうか。
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ミュンヘンの諷刺雑誌『ジン プリツィシムス』とパスキンの挿絵。
1902年に家族の元を去った後、10代後半のパスキンは 転々としながら美術の勉強を深めていった。同年、ハンガリーのブダペストとオーストリアのウィーン、翌年ドイツのミュンヘン、 翌々年ベルリンで学ぶ。その後、ミュンヘンの諷刺雑誌『ジン プリツィシムス』に寄稿するようになり、専属画家として破格と言える月 400マルクの契約を結んだのである。この頃、本名 Pincasのつづりを入れ替えたPascinを名乗るようになる。ピンカスの名を名乗らないで欲しいという、父からの要請があったためである。
初期の活躍の場であった『ジンプリツィシムス』は1896年に創刊され、反軍国主義を掲げて当時の政界、財界、軍隊、 貴族などを徹底的に嘲笑して人気を集めた。バスキンは当初、素描家・挿絵画家としてデビューしその名を知られていたのである。彼は、その後パリ、アメリカへと居住地を変えるが、1929年まで20年以上にわたって継続的に、この雑誌に挿絵を描いている。
初期の活躍の場であった『ジンプリツィシムス』は1896年に創刊され、反軍国主義を掲げて当時の政界、財界、軍隊、 貴族などを徹底的に嘲笑して人気を集めた。バスキンは当初、素描家・挿絵画家としてデビューしその名を知られていたのである。彼は、その後パリ、アメリカへと居住地を変えるが、1929年まで20年以上にわたって継続的に、この雑誌に挿絵を描いている。
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ジュル・パスキン《ソファに腰掛けるシェザンヌ》1911年。
1905年12月24日、20歳のパスキンはパリに到着する。挿絵画家としての活躍を知っていたドイツの画家仲間が彼を迎えた。モンパルナスのカフェ「ル・ドーム」に通い、ドイツや北欧出身者を中心に交友関係を築いていったのである。当時のパリでは、出身地を同じくする人々がカフェに集い、さまざまな文化の潮流が生まれた。
パスキンは、パリ到着以降に本格的に油彩画を独習し始めた。ルーヴル美術館をはじめ様々な美術館の名画をみて回り、模写を行っている。しかしアメリカに渡る前に油彩画を発表したことはほとんどなく、サロン・ドートンヌや画廊には素描、水彩、版画を出品していた。当時のパリ画壇の最先端はフォーヴィスムやキュビスムであった。後年の作品に比べて初期の油彩画は、濃密な色彩と明快な輪郭線を特徴と、交流のあったフォーヴィスムの画家マティスの影響が見て取れる。キュピスムの試みは、アメリカ移住後の時期に集中して見られる。
パスキンは、パリ到着以降に本格的に油彩画を独習し始めた。ルーヴル美術館をはじめ様々な美術館の名画をみて回り、模写を行っている。しかしアメリカに渡る前に油彩画を発表したことはほとんどなく、サロン・ドートンヌや画廊には素描、水彩、版画を出品していた。当時のパリ画壇の最先端はフォーヴィスムやキュビスムであった。後年の作品に比べて初期の油彩画は、濃密な色彩と明快な輪郭線を特徴と、交流のあったフォーヴィスムの画家マティスの影響が見て取れる。キュピスムの試みは、アメリカ移住後の時期に集中して見られる。
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ジュル・パスキン《裸婦の構図》1915年。
1914年、第一次世界大戦が勃発。パスキンは母国ブルガリアの徴兵を逃れるため、ブリュッセル、ロンドンを経てアメリカ合衆国ニューヨークに到着。エルミーヌは翌年合流した。二 ューヨークでは若い芸術家が集まるグリニッジ・ヴィレッジにア トリエを借り、前衛的芸術集団「ペンギン・クラブ」に入っている。また、下町のカフェやダンスホール、ハーレムなどを訪れ、労働者やアフリカ系アメリカ人、娼婦などをよく描いた。また、 頻繁に旅にも出ている。キューバなどのカリブ海諸国、テキサ スやフロリダ、ニューオーリンズなどアメリカ南部。生涯を通して、パスキンの旅は南へ向かうものが多かった。1920年、エルミーヌとともにアメリカ国籍取得。
アメリカ時代の作品の特徴は、キュビスムへの接近である。明るい陽光の下、立体物であることを意識して描かれた丸みを帯びた人体が、パリ時代よりも軽快な色彩で描かれている。
アメリカ時代の作品の特徴は、キュビスムへの接近である。明るい陽光の下、立体物であることを意識して描かれた丸みを帯びた人体が、パリ時代よりも軽快な色彩で描かれている。
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ジュル・パスキン《二人のモデル》1924年。
1920年、パスキンはエルミーヌとともに6年ぶりにパリに戻る。1918年に第一次世界大戦が終結し、パリには久しぶ りの平和を享受しようという空気があった。1920年代は、フランス国外からやって来た芸術家たちを中心とした「エコー ル・ド・パリ」の時代でもある。久しぶりにパリに戻って来たバスキンは、かつての仲間に迎えられ新しい仲間も得て、画家や評論家、小說家、画廊主などとの交流を深めていった。パスキンの代名詞となっている淡く輝く色彩とけぶるようなタッチの油彩画の女性像が描かれるのは、この二度目のバり時代である。少女から大人の女性まで、くつろいだ、時に気だるげで官能的な姿を捉えている。
パリに戻ってからのパスキンは、精力的に活動する。油彩、 水彩、素描のほか、エッチング、リトグラフ、ドライポイントなど の版画も数多く手がけた。一方で心身は徐々に衰えていった。アルコールとコカインにより肝臓と心臓を蝕まれ、リュシーとエルミーヌとの不安定な関係を抱えていた。更に、画廊と専属契約を結んだことで自由を束縛されることや、個展の不評に悩み苦しんだ。
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ジュル・パスキン《三人の裸婦》1930年。
1930年6月2日、パスキンは自ら命を絶った。発見されたのは3日後。膨大なスケッチが山積みにされたアトリエで、壁には血文字で「アデュー、リュシー(さよなら、リュシー)」と書 かれていた。自殺の原因は明らかではない。画家は常々、「人間は、とりわけ芸術家は、45歳以上生きながらえる必要はない。仮にそれまでベストを尽くせなかったとしても。その後に名声を上げるほどのものを生み出すことはできない。」と語っ ていた。享年45歲。
【現代ガラスのオノマトペ】
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ガラスの多彩な表現は、わたしたちに様々なイメージを呼び起こします。「ゆらゆら」「くねくね」といったオノマトペ(擬音語、擬態語)をキーワードに、創造性豊かな現代ガラスの世界を探ります。
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正木友梨《ガラスと光の造形Ⅳ》1990年。
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スタニスラフ・リベンスキー/ヤロスラヴァ・ブリフトヴァ《頭89》1989年。
後ろから光を当てると、茶色い頭の像が「ぼんやり」 と青く浮かび上がります。作者が好んで使った、色が変化する不思議なガラス。明滅するライトを当てることで、頭像が命を持って鼓動しているかのように感じられます。
【片岡球子「面構」シリーズ】
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令和5年度に新たに収蔵した《面構 一休さま》等を紹介します。
【新収蔵品展】
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北海道を代表する写真家・掛川源一郎の作品など。
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掛川源一郎《白老1962/客待ち顔のエカシ》1962年。以上で鑑賞終了。
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北海道立近代美術館の収蔵品展「近美コレクション」は豊富な作品群を都度新たな切り口で紹介する見応えのあるものです。以前に見た作品でも新たな企画の中で鑑賞すると「なるほど」と思わせるものがあります。今回も少し盛り込み過ぎの感じもしましたが楽しませていただきました。ありがとうございます。
「北海道立近代美術館」
札幌市中央区北1条西17丁目
[電話番号]011-644-6881
[開館時間]
9:30 - 17:00(入場は16:30まで)
9:30 - 17:00(入場は16:30まで)
[休館日]月曜日(月曜日が祝日または振替休日のときは開館、翌火曜日は休館)/年末年始(12月29日~1月3日)/
(2024.5.30)