風の向こうに  

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通化事件とは 終戦後旧満洲で日本人に起こった悲劇

2017-02-19 18:53:44 | 歴史
記事名/旧満州・通化事件から70年 終戦後の悲劇忘れない

j_arm_surrender

2016/2/3 13:53
日本経済新聞 電子版
戦後の旧満州(現中国東北部)で多数の日本人が犠牲になった通化事件から3日で70年。
旧日本軍の一部が武装蜂起し、その後市民を含む日本人が中国共産党軍などに殺害された。
戦後の混乱の中で事件は歴史の陰に埋もれ、全容は今もよくわかっていない。
生き残った人々や遺族は「悲劇を繰り返さないためにも、事件を語り継ぐ必要がある」と訴える。

「日本人の男は全員外に出ろ!」。70年前の2月3日の朝、通化地区(現中国吉…

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http://www.nikkei.com/article/DGXLZO96862640T00C16A2CC0000/


*長いので、暇な時にでもお読み下さいm(_ _)m
【通化事件について】
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ttp://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-758.html

大東亜戦争が終わっても、満洲や朝鮮にいた日本人居留民の引揚者が、無事に日本へ帰ることは
容易ではありませんでした。

通化事件(つうかじけん)というのは、終戦の翌年である昭和21(1946)年2月3日に、
かつての満州国通化省通化市で、日本人に対して一週間にわたって拷問と銃殺が行われ、
あるいは凍死させられ、軍とは何のかかわりもない民間人二千人(一説によると数千人)が
殺害された事件です。


加害者は、支那共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)、被害者は日本人です。

通化市というのは、いまの北朝鮮と支那の国境付近にあった市です。

終戦時の通化は、中華民国(蒋介石・国民党)政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって治安が維持されていたのです。

治安が維持されていたから、満洲の奥地から日本に帰国しようとする多くの在留邦人や引き上げのために集まった日本人、17000名が滞在していました。

男は、満洲にソ連が侵攻した際の戦いに出自し、辺境で命を落としたり、
シベリアに連行されたりしています。命がけで、女子供や老人を逃し、そのために命を犠牲にして戦った。

ですから当時の通化にいたのは、男たちが戦って時間をかせいでいる間に
、必死に逃げさせた女性や子供、老人たちだったのです。

(中略)

通化では、在留邦人がそうした日本人避難民に衣服や住居を提供するなどしていたのだけれど、
その通化市居留の日本人ですら、家屋や家財を強制的に接取されるなどしていました。

 

 
そこに昭和20(1945)年8月24日、ソ連軍の将校20人、兵士200人が進駐し、市内の竜泉ホテルに司令部を設置します。

この連中も悪かった。

日本人居留民の家屋に押し入り、財物や衣類を奪い、奪うモノがなくなると、日本人女性や少女を強姦し、抵抗する男性や老人は平気で暴力をふるい、殺害しました。

武装解除されたとはいえ、通化市にあった日本軍憲兵隊は、ただ手をこまねいていたわけではありませんでした。

原憲兵准尉は、ソビエト兵が白昼の路上で日本女性を裸にして強姦していた現場に駆け付け、女性を救おうと制止してもソ連兵行為を止めないため、やむなく軍刀でその強姦兵を一刀のもとに斬り捨てました。しかしその場で原准尉は、別のソビエト兵に射殺されている。

そしてこの事件以降、日本人は、憲兵といわず民間人といわず、日本刀も没収の対象となっています。

完全に丸腰となり、身を守る術を持たなくなった日本人遺留民に対し、ソ連の軍司令部は、公然と日本人女性を慰安婦として供出せよと命じてきました。(中略)

日本兵はちゃんと金を払って彼女たちを買っていました。ですから、日本兵の給料が将校クラスで25円、兵隊クラスで15円が相場だった時代に、彼女たち売春婦は、2年もすると3~5万円の貯金ができたのです。

当時のお金で3~5万円というのは、いまの貨幣価値にしたら3~5億円の大金です。ですから一家のうちの女の子が日本人相手の売春婦になるというと、当時の朝鮮人は、一族をあげて大喜びした。

(中略)

世界の常識は日本の常識とは異なります。

戦いに勝てば、負けた側の財産や女を略奪し放題にする。それが兵士たちの稼ぎになるというのが当時の世界の常識です。

ソ連の通化市への進駐軍は、日本人から武器を奪い取るだけでなく、女性の供出を求め、
さらに日本人が外部の情報を得ることがないように、ラジオを全部没収します。

さらに支那共産党軍は、ソ連進駐軍の下請けとして日本軍の脱走兵狩りを行い、
男性600人を検挙し吉林へ連行してしまいます。

つまり、通化市を、日本人の女子供と老人ばかりにした。
ソ連軍が撤退すると、通化の支配を委譲された支那共産党軍は、通化市の市役所の幹部職員全員を連行し、旧満州人の役人全員を殺害します。つまり日本人社会の行政機能を奪った。

さらに清算運動と称して、旧満州人たち通化市民の家宅に片端から侵入し、民族を問わず金品を掠奪します。

そして昭和21(1946)年9月22日には、支那共産党軍が、公式な連合国軍であった
中華民国政府軍に攻撃を仕掛けて、通化市から駆逐してしまいます。

10月23日になると、支那共産党軍の一個師団が新たに通化市に進駐してきます。

11月2日には、支那共産党軍劉東元司令が着任します。

そして同日付けで、支那共産党軍は、17000名を超える日本人遺留民に対して、
収容能力5000名以下しかない旧関東軍司令部へ「全員、移動せよ」と命令します。

移動した日本人遺留民に対し、支那共産党軍は、即日「遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)」の設立を命じました。

日解連は、日本人に対する中国共産党軍の命令下達や、日本人への共産主義教育を担当する
支那共産党の下請け組織です。


このことは大事なポイントなのですが、およそ民族支配をしようとする者たちは、必ず民族の分断工作をします。

(中略)

満洲の通化でも、日本人遺留民の分断工作のために、支那の共産主義を受け入れる者にある種の特権を与え、同民族同士での分断工作が行われました。

それが日解連だったわけです。

日解連は、日本人のスパイとなり、支那共産兵に、どこぞの日本人宅には、
これこれの財産がまだ隠されている、誰々の家には、美人の娘さんがいるなどの情報を与えた。(中略)

日解連は、支那共産党軍の指示に従い、日本人遺留民の財産を全て没収しようとします。
これに対し、日本人遺留民たちは、正々堂々、最低限の衣類や食糧の確保の嘆願を続けます。

すると支那共産党は、没収を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約を要求します。
そして11月17日には、支那共産党に応じない元満鉄総裁の大村卓一を、
満鉄総裁であったことを罪状として逮捕、投獄した。

この間も、支那共産党の兵士たちは、武器捜索を名目に、日本人の家屋に押し入っては、略奪・暴行・強姦を、連日続けています。

12月23日、日解連の通化日本人遺留民大会が、通化劇場で開催されます。

劇場には、中国共産党万歳、日本天皇制打倒、民族解放戦線統一などのスローガンがおどっています。

大会には、劉東元司令を始めとする支那共産党の幹部が列席し、日解連幹部らも檀上に勢ぞろいした。そこに日本人遺留民3000人が出席します。

議長は、日解連幹部で元満州国官吏の井手俊太郎が務めます。

彼は、「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」と、冒頭に発言した。

日解連幹部たちは、自分たちのこれまでのやり方の手ぬるさの謝罪が行われ、
「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰です」などと、連日乱暴狼藉を働く支那共産党に媚びた発言がなされます。

しかし発言を求められた日本人遺留民たちは、その席で、日解連を堂々と非難したのです。そして明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言を、次々に繰り広げます。

そして山口嘉一郎老人が、「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案しました。

会場に、満座の拍手が沸き起こります。
議長が苦い顔で、賛意を示す者に起立を求めました。
会場のほぼ全員が起立した。

そして高らかに、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われます。

万歳のあと、山口老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれません。ですから徐々に教育をお願いしたい」と述べます。きわめて常識的な発言です。

大会は、日本人有志の正々堂々とした発言で会場を取り仕切られました。
しかし、その日の翌日以降、大会で発言した者は、全員、支那共産党によって連行され、殺害されてしまいました。


(中略)
この通化事件の情況については、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の末、やっとの思いでどうにか無事祖国にたどり着くことができた外科医婦人中郷三己枝さん(当時27歳)の手記がありますので、まるごとご紹介します。

出典は、高崎弥生氏の著書「実録、遥かなる回想」です。

~~~~~~~~~~~

中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、 国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった。

その中心人物は藤田大佐で、かつて戦車隊長として雷名をとどろかせた猛将として有名だった。
昨年6月、通化にやってき今利中将ひきいる第百二十五師団の参謀長だった。

この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、総勢、約千名が、2月3日の未明を期して一斉に蜂起した。

それは暴動のようなものではなく、それぞれ攻撃目標を定めた組織的な反乱だった。

しかし、たのみの国民党軍は呼応しなかったし、同時に立ち上がる予定の航空隊は、八路軍(支那共産党軍)の先制攻撃を受けて参加できず、それ以上悪いことに、反乱軍の動きは、八路軍のスパイによって探知されていたため、奇襲攻撃はことごとく失敗に終わった。

部分的に要所を占領した部隊もあったが、それも数時間で壊滅してしまい、敵弾にたおれ、傷ついて捕虜になった者も多く、壮絶な戦死を遂げた者もすくなくなかった。

この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。

血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。

この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。
これは日本人弾圧の絶好の口実となった。

やがて恐ろしい報復が行われ始めた。元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。

通化市内では、16歳以上60歳までの日本人男子は、ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと眼入れされた。市内は恐怖のるつぼと化した。

八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。
この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。
とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。
そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。みるみるうちに、ばたばたと倒れた。

重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。

死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。

~~~~~~~~~~
監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しの
まま5日間もの間立ったままにされた。

苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。
発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。

しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。

そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。

その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。

そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。

やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。

するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。
これが毎日のように行われた。
なんという地獄絵図だろうか。

一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。

手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。

帰ってからも発熱のために苦しむ者。凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。

(同上)
~~~~~~~~~~~

(中略)

事件後、3月10日になると、市内の百貨店で支那共産党軍主催の二・三事件の展示会が開かれました。

戦利品の中央に、蜂起直前に拘束された孫耕暁通化国民党書記長と、2月5日に拘束された 藤田実彦大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられました。

3月15日に藤田大佐が獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされました。

渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんでいました。


この年の末、国民党政府軍が通化市を奪還します。
国民党は、事件犠牲者の慰霊祭を行ないました。
しかし翌年には、再び通化市は、支那共産党軍が占領しています。
通化事件というのは、大東亜戦争がすでに終結したあと、日本に帰国するために比較的治安のよかった通化市で起こった事件です。

日本に帰国しようとする避難民に対し、支那共産党は略奪強姦の限りを尽くし、我慢の限界を超えた日本人が、武器も持たずに一斉蜂起(2月3日)すると、彼らはこれを鎮圧しました。

そして蜂起とは何の関係もなかった日本人を含め、3千人とも4千人ともつかない日本人を、
零下30度の極寒の中で、両手を上げさせて銃剣で追い立て、一部を殺害し、一部を監禁。
監禁された日本人は、せまい部屋に120人ごとに押し込め、さながら満員電車のような身動きできない空間で、酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃って殺した。

5日間にわたって、大小便垂れ流し状態で死体とともに立ったまま部屋で監禁されていた日本人たちは、 ようやく息も絶え絶えに部屋から出されると、こんどは朝鮮人たちが、こん棒で好き放題に殴りつけました。ある者は殺害され、生き残った者も手足をぶらぶらさせていました。

一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって、一般の民間人二千人(一説によると数千人)近くが殺された、この通化事件は、支那が捏造している南京事件と異なり、完全な事実です。

しかも、ときは戦時中ではなく、戦争が終わった後、それも武器を持たない一般市民に対して行われた暴虐です。

ちなみにこの事件の際、支那共産党に媚を売り、日本人の密告や財産の強奪の手引きをしていた日本人の共産党工作員がいました。

彼ら工作員は、日本人避難民が乞食同然の生活苦でいたときに、立派な服を着て街を闊歩し、
罪のない日本人を売って得意になっていました。

しかし通化事件のとき、その日本人共産党員も、他の日本人と同様、殺され、監禁され、手足の骨を折られています。

通化事件は、たいへんな死傷者を出した大事件です。
記録にもあるように、この事件では、日本人が二千人(一説によると数千人)も殺され、その死体は、夏になっても渾江川に浮かんだ。

大規模な殺害があれば、そういう証拠がいつまでも残るものです。

まして支那や反日主義者が主張するように、南京で日本人が30万人も虐殺を行ったとするならば、
その記録や証拠が、いくつも残らなければおかしい。

しかし、そんな証拠はまったくないし、証拠として出されているものも、それが捏造である事実がことごとく暴かれています。

戦後の反日左翼主義者、反日思想家たちは、この通化事件について、日本軍が乱暴狼藉を働いたために、 その騒動に一般の日本人民間人が巻き込まれ、たいへんな被害に遭ったと説明しているようです。

しかし、上に述べたとおり、日本人の旧軍人たちが蜂起したのは事実ではあるけれど、彼らは武器すら携帯していなかった。軍刀すら没収されて持っていなかったのです。

そして事件までの半年間、財産を奪われ、家屋に押し入られ、女性たちを強姦され、あるいは殺され、暴行を受け、無理やり共産主義万歳と唱えさせられ、もうどうにもならないところまで追い込まれて、彼ら軍人は、蜂起した。

それに対する支那共産党の報復は、蜂起した軍人の逮捕ではなく、一般人の虐殺だった。

事件が起こったのは、昭和21年です。すでに戦争は終わっています。
日本と支那は、このときすでに交戦状態ではなかったのです。
つまり暴動が起きた、それも武器を持たない市民(旧軍人もこの時点では一般市民)の蜂起であったとすれば、鎮圧は国内の治安維持活動であるはずです。

にも関わらず、支那が行った行為は、暴行であり虐殺でした。

これが非道にあらずして、何をもって非道というのか。


 
KSM WORLD NEWS 2017/02/03(金)12:24:10
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ttp://ameblo.jp/sikisima-takasago/entry-12249255278.htmlより