いしかわ城郭カード→こちら
津幡町史跡【津幡城址】
富山県小矢部市の『今石動城』を訪ねその歴史を調べたところ、前田利家の弟の存在を知り→こちら
その前田秀継が城主であった富山県福岡町の『木舟城』では→こちら
「天正の大地震」で城の下敷きになって落命した秀継夫妻の霊を『菩提寺旧高徳寺』の廟にて弔った。→こちら
そこまで知るとこれも何かの縁、秀継が木舟城主になる前に赴任していた『津幡城』を訪ねてみたくなるのは必然!
兄である前田利家は四男ながら信長の命により嫡男利久と尾張荒子城主(前田家当主)を交代させられた曰くがあり、その確執から3人の兄より使いやすかった末弟の秀継に国境の守備固めの任を命じた。
つまり信長の下で北陸方面軍として戦っていた柴田勝家と前田利家。その信長亡き後の「賤ケ岳の戦い(秀吉と勝家の戦いで前田は勝家方)」以降(小牧・長久手の戦い)で豊臣方と徳川方に分かれた佐々成征(越中)と前田利家(加賀・石川・河北)
その両者の間で緊張が高まっていた天正12年(1584)に国境警備の任で国境の『津幡城』に着任した。
そして遂に同年8月両者の間で武力衝突が発生。9月8日には佐々軍は富山城を出て結集していた『木舟城』を出発、本体は『津幡城』へ行くと見せかけ能登『末森城』攻撃に向かった。
※その際、仮に佐々軍によって津幡城が攻められていたらどうなっていたんでしょうか?佐々軍本体15000、支隊に兵を割いていたとはいえ多勢に無勢、秀継も危うかったと思います。
同9月9日から10日にかけ『末森城』で戦闘開始。10日金沢城の利家に情報が伝えられると即座に出陣、松任城の嫡男利長も出陣。両軍は10日夜津幡城に集結し「軍議」を開いた後利家・利長は夜半に津幡城を出発し未明には末森城付近に到達し陣を張る。「末森城将奥村」の奮戦で持ち堪えていた所へ前田軍による未明の奇襲作戦により、佐々軍は敗走。
その後翌天正13年(1585)8月豊臣秀吉が10万の大軍にて越中に攻め入り(富山の役)佐々成征による越中支配は前田方に移り、津幡城主前田秀継は国境を越えた『木舟城主』となり前田家の越中支配の要を果たすことになったため『津幡城』は廃城となったという。。。
、、、津幡城址に建てられた説明版(津幡町教育委員会)
【場所】は津幡町の市街地、旧津幡小学校跡地。
新津幡小学校からすぐ近く「おやど通り」と呼ばれる小路を登った小高い丘の上にある。
現在はグラウンドがそのまま残り、
旧校舎があった辺りには3年前に新築された『ふるさと歴史館・れきしる』と『児童館』が異彩を放っている。
その児童館奥の杜にある「(冷泉)為広塚」
冷泉家と言えば京都の公家、何故ここに? ざっくり言って応仁の乱で荒れ果てた京を逃れ親交のあった「能登の守護・畠山氏」を頼って疎開していたそうである。
その墓を後年発見して石碑を建立したのが「河合見風」と親交のあった「前田土佐守直躬」ら。
その「河合見風の句碑」も同じ場所に建立されている。
見風といえば、先に訪ねた「今石動城」城址公園内に芭蕉の句碑「寝覚塚」を建立したことでも知られ、両者とも前田家との因縁が感じられる。
さて本題の【津幡城跡】だが、こんもり盛られた築山、あるいは櫓台にも見える台地に「忠魂碑」が建立されている。
その忠魂碑脇にひっそりと【津幡城址】の石碑が建っている。
この台地に立ち周囲を展望すると、足元の駐車場は「本丸」ブランドは「二の丸、三の丸」に見えてくる。
そしてその先、丘の下に広がる津幡の城下町。
南西の方向には「金沢城」、北の方向には能登「末森城」、
東の山には越中国境・倶利伽羅があるという交通の要衝であったことが伺える。まさにここは戦国における国境の軍事拠点だったのです。
【歴史】
現・石川県河北郡津幡町清水に残る、古代の日本の城(平城)。昔から交通の要衝であった。現在は石標のみが立てられている。
平維盛が寿永2年(1183年)倶利伽羅峠の戦いの際津幡川に面した、小高い丘に砦を設けたことに始まる。建久元年(1190年)には、井上庄の地頭津幡隆家が居城とした。
観応2年(1351年)には、富樫氏春がこの城で、桃井直常軍と戦っている。
天正4年(1576年)から一向一揆が立て籠もっていたが、天正9年(1581年)織田方の柴田勝家らによって落城した。
天正12年(1584年)佐々氏と前田氏の間に緊張が高まると、前田利家が再び築城。弟の前田秀継に守らせている。9月、末森城包囲中の佐々軍攻略の軍議をここで開く(末森城の戦い)。天正13年(1585年)、前田秀継が木舟城に移ると廃城となった。 (現在、津幡小学校。)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
※2022年6月12日 お城検索、いしかわ城郭カードリンク、写真追加
【津幡城】
名称(別名);
所在地;〒929-0326 石川県河北郡津幡町字清水リ1-1
城地種類;平山城
築城年代;寿永2年(1183年)
築城者;平維盛、前田利家
主な城主;津幡小三郎隆家、上杉謙信配下、前田利家弟秀継
文化財区分;津幡町史跡
近年の主な復元等;顕彰碑
天守の現状、形態;なし
地図;
※出典、、、津幡町観光ガイド
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