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あみの3ブログ

00 長浜城@滋賀県長浜市 平成29年(2017)8月

2017年8月訪問
長浜には10回近く訪れているが長浜城に立ち寄ったのは初めて。
当時の城郭の一部は琵琶湖に水没して、現在の城は1983年に再建されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されている。→こちら


天主閣からは琵琶湖や彦根、信長の安土城まで見渡せる。


長浜は琵琶湖の水上交通や旧北國街道の要衝の地で、現在も古い街並みや黒壁が残り観光名所となっている。→こちら






【滋賀県長浜市公園町の豊公園内にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した日本の城跡】

1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。
同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
1581(天正9年)中国遠征で、不在であった秀吉のあと、荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功から堀秀政が、織田信長から長浜城主に任じられる。
1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城するが、同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が入り、6年間在城した。1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。
1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。
城の一部が琵琶湖に水没し、長浜城遺跡となっている(琵琶湖湖底遺跡)。
現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されている。、、※出典:ウィキペディア(Wikipedia)


【長浜城】
《》


名称(別名);
所在地;滋賀県長浜市公園町10-10
城地種類;平山城
築城年代;天正元年(1573)
築城者;羽柴秀吉(豊臣秀吉)
主な城主;羽柴氏、堀氏、柴田氏、山之内氏、内藤氏
文化財区分;
近年の主な復元等;城の一部は琵琶湖に水没(水中遺跡)
天守の現状、形態;1983年鉄筋コンクリート模擬復元(市立長浜城歴史博物館)
地図;



※出典、、、ウィキペディア(Wikipedia)
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