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2022年2月26日、積雪の山城を訪ねて「松根城」から「森寺城」へやって来ましたが、どちらも林道の残雪がハンパなく城域に立ち入ることすらできませんでした。
2021年の北陸豪雪と変わらない量の雪が降った今年は、山城巡りのスタートがなかなか切れないでモヤモヤしています。
あれから2週間、ようやく気温も上昇し雪解けが進んだようなので出かけてみました。
前回立ち往生した辺りは工事中だった為除雪されていなかったようです。
林道の雪が解けて進むことができましたが、、、
日陰の部分にはまだ残雪があります。
日陰の部分では40㎝位の湿った雪が残り、ジムニーでも対角線スタックを起して登ることができません。
でも日向の部分では雪が解けているので、装備しているスコップで轍の部分を除雪して進路を確保。
林道上の倒木の枝を装備しているのこぎりで切り払いながら前進、なんとか「森寺城跡駐車場」に到着。
駐車場から城跡入り口
案内看板と熊注意の立札
直進は搦手口、城戸口方面
左手は主郭方面
全長1,300mにも及ぶ城域を北から南に貫いている「城戸道」
木立に覆われているせいか、林道とは打って変わって雪がありません。
2月26日時点でも、もしかしたら雪が無かったのかもしれませんね。
2020年4月に訪問した際は曲輪を中心に歩きやすいルートでの見学だったので、今回は「堀」や「土塁」に絞って藪に分け入ることにしました。
森寺城跡マップ
現地案内板より
当日の行程を縄張り図に表しました。
佐伯先生著、越中中世城郭図面集Ⅲより(ブログ管理者加筆)
先ずは「搦手口」
城戸道を意図的にクランクさせ、敵の侵入速度と量を抑制する防御施設。
搦手口の土塁
喰い違いの土塁で強制的に道を曲げ、土塁上から通行を監視していたのでしょうね。
ここには城門が設けてあったと考えられています。
土塁とセットで設けてある堀切
当時は今より1m以上深かったことが発掘調査で分かりました。
「喰違虎口」
これと同じ防御施設が駐車場付近の「寺崎屋敷」曲輪向かいにも有ります。(図面F)
堀切(図面⑫)
尾根を切断しています。
こちらは主郭に近く城戸道を意図的にクランクさせ、敵の侵入速度と量を抑制し、両側に櫓台を配置し防衛力を強化しています。
喰い違い土塁
堀切(図面⑬)
二重に設けられた堀切(図面⑭)
城戸道から二の丸への登り口(現在の順路)
右手主郭方向
左手は城戸道を見下ろす高台となっており、(図面F)の喰違虎口を警備する櫓台があったと考えられています。(図面 I )
城戸道から二の丸への登り口(現在の順路)
右手の石垣に興奮して、ここが大手かと思ってしまいます。主郭西面の石垣破城の痕跡でしょうか。
「主郭」(図面A)
東方向から見た主郭
右手は二の丸
左手は本丸
御殿の茶井(ゴテンノチャイ) 井戸(図面①)
直径約7m 北陸の山城では破格の大きさと先生は表現しています。
「本丸」(図面③)
東面石垣
同北面石垣
「主郭虎口構造」
佐伯先生著、越中中世城郭図面集Ⅲより(ブログ管理者加筆)
主郭虎口と大手
主郭から見下ろした構図で、左手が櫓台(図面④)
同、下から見上げた構図(図面②)
大手階段の石垣と櫓台(図面⓹)
大手道、通称「石敷き通路」(図面⑦)
権力の誇示が目的だったのか
道は直角に折れ、登り階段に向かう(図面②)
写真左手には「広場」(図面⑥)があり、虎口の警備兵が駐屯していたと考えられています。
城戸道から主郭虎口に至る大手道分岐には中門があったとされる。(図面⑯)
「主郭周辺の防御」
主郭東面の斜面に施された切岸
下は帯曲輪のように移動ができる
堀切(図面⑮)
日当たりが良く藪が茂っているのでわかりにくいが、この時期が一番の見ごろかも知れません。
かなり大きな堀が主郭の直下に掘られています。
同南東隅堀切(図面⑨)
そこからぐるっと南側に回り込む帯曲輪状削平地
ここは日陰のせいか、未だ残雪に覆われています。
主郭大手へと続いています
ここで城戸道に戻り、氷見方面へ南進します。
途中高級家臣団の住居が立ち並んでいたという「本町」(図面C)、「サイダ(家臣斉田氏)屋敷」(図面J)を通り過ぎ、
左手にある「カンジャ屋敷」の方向に立ち入ってみます。
目的はその先にある「金戸山(通称カナドヤマ)曲輪」です(図面B)
この周辺は藪が茂り、曲輪の削平面も荒れたままなので立ち入りを推奨していないことは、案内看板が無いことでもわかりますね。
以下の防御施設は確信がありません。
もしかしたら、もっと崖下の先に本来の防御施設があるのかもしれません。
金戸山堀切?
金戸山畝状空堀群?
金戸山切岸?
物見台(図面K)
城戸道と直接ぶつかる場所で最前線基地ともいえる。
踏段堂(フンダンドウ)
ここで城戸道は屈折し、物見台からの攻撃を受ける仕組み。
踏段堂の武者隠し的「横堀」
「野崎屋敷」(図面D)
物見台から西に位置し、分岐には標識があります。
現在の見学ルートは南西斜面に沿って谷を左に見て進む。
この辺りに二重の竪堀があるハズなんですが、よくわかりませんでした。(図面㉔)
野崎屋敷下西側に広がる帯曲輪状削平地
その北側尾根上には「サイダ屋敷」(図面C)
がある。
独立性が高く明確な虎口や通路は設けられていないそうです。
現在の見学コースに設けられている階段は虎口ではないのか~??
野崎屋敷曲輪
同土塁
井戸
主郭の井戸に比べ一回り小さいが、かなりの深さがあって現在も水を湛えていそうです。
この曲輪に専用の井戸があるとは、居住性抜群の立地ですね。
野崎屋敷大堀切(図面㉑)
曲輪がある山の南側の端っこを、真っ二つに断ち切ったような広大な堀切
堀底から曲輪削平地までの高さも10m位あって凄い!
堀切の西端は二重の竪堀へと続く(図面㉓)
更にその西側の崖下に向かって「畝状空堀群」(図面㉒)で防御を固めています。
佐伯先生はまとめとして
16世紀初めころ、能登畠山氏の越中における拠点として築城
天正4~7年、上杉氏の持ち城として使用
天正6~7年、上杉氏によって防御ラインが構築?
天正9年頃、織田政権によって石敷き通路や主郭虎口・石垣が構築される
天正9年に、織田政権によって防衛ラインが構築される?
天正13年まで佐々成政が使用するが、特段の改修なし
天正13年佐々成政降伏後まもなく廃城
※防衛ラインとは
幾つかの時代に分けて、別々の政権が別々の意図をもって、改修したのではないかと先生は指摘されています。
山城は本当に奥が深いですね。
鉄塔工事や放送施設の建設で破壊された山城もたくさんあると思いますが、開発から免れたことにより400年から500年も前の遺構がそのまま残っていることに驚きです。しかも城は時代の変遷で築城技術が進化し、機能をみればどの時代の?誰の影響によるものか?まで分かるのですから。そしてお城は幾代にもわたって敵も味方もなく(時の為政者によって)改修され使用されてきました。そういう連綿とした歴史を感じることができるのも楽しみの一つです。
【森寺城】
《もりでらじょう》
名称(別名);湯山城
所在地;富山県氷見市森寺
城地種類;山城
標高/比高;167.2m/150m
築城年代;16世紀中頃
廃城年代;天正13年?
築城者;能登畠山氏
主な改修者;佐々成政
主な城主;畠山氏・上杉氏・佐々成政
文化財区分;氷見市指定史跡
主な遺構;曲輪・切岸・土塁・堀切・竪堀・横堀・畝状空堀群・石垣
近年の主な復元等;
※出典、、、越中中世城郭図面集Ⅲ
地図;
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