弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

気分障害・不安障害者の研究者への道ー本当に正しいのか

2021-02-12 19:06:58 | 思考
関西で大学院の中退手続きを終えて、実家に戻って新しい分野の研究をするための大学院受験の勉強をしているが、あと数日にして限界ぽい。受けに行けたらそれで御の字だろう。

勿論、研究したいテーマがあることは前提で、何故、この道を選ぼうとしているのか改めて考えて見よう。

・コンスタントに頑張らなくて良い
これは嘘だと前の大学院で実感した。確かに、研究自体は忙しい時期と忙しくない時期はある。
だが、正規採用になったら学内業務も加わるため、そして、非常勤の状態でも掛け持ちのため、ゆっくりしていられる時期などあまりない。更には、実験への不安とかで精神的に厳しい。
そういう意味では、哲学とか文献研究系は実験などの実拘束はないので、それでも少しは時期によっては楽な時期があるのかもしれない。(それでも、哲学は嫌になったのだが)

・能力と適正
確かに、言語系のIQは高めだし、ちゃんとした適正検査で、人文系の研究者が一番目に出た。
だが、不安障害はともかく、うつ状態が長く続くとパフォーマンスが落ちるので、結局、病状次第ということにはなる。
(ただ、実験系は文献系と違って、人との交流多いぶん、それが励みにもな
る。共同研究も多い)

・30を超えて職歴なしだとそもそも他の所への就職が厳しい
まあ、これは障害を隠してたら完全にそうだろう。ただ、アカデミックも年齢が関係ないかというとそうでもない。

・プライド
で、障害者採用だが、これはちゃんと働かせてくれてアイデンティティーを持てる所とそうでない所は分かれるだろう。そして、その識別はなかなか難しい。
少なくとも、入院中の医師からは、自分が単調作業に向いていない、ということは言われたし、やっぱり下に見られると思うので、これは重要だろう。
あと、自分の新しい研究テーマは社会への還元性も高いと思ってる。そういう自負の部分で障害者採用より自分に誇りが持てる。

・生涯の職業として
他人より一回り以上も遅れたせいで、障害者採用だと、老後が年収的に厳しいだろう。
そのぶん、アカデミックなら(大成出来れば)普通の人より長く働けるし、本などの出版など収入が他にも一応期待出来る。つまり、生涯を通してのライフワークに出来る。

まとめ
結局、うつ状態になったら色々厳しいとはいえ、熱意、あとは運でそれだけだろう。
自分が何に反抗したいのか、何を明らかにしたいのか。
それで故人にどう向き合えるのか。

今回落ちても、はいやめます、というのは絶対に違う。
秋から自殺念慮とかでボロボロになって、それでも鞭打って、ここまで来れたことはむしろ誉めるべきだろう。
そして少し休んだら、また再開しよう。

全ては否定的な感情で苦しむ人、そして、それ故に自殺という悲惨な道を歩んだ人のために。。


自分の命と釣り合うのは・・

2021-02-04 03:04:36 | 思考
まあ、色々哲学的な何かをかじって前回書いた独我論的な思考は生まれて。
確かに、私というのが特権的(死んだら世界を認識出来ないという意味合いで)である。

だが、それでも、いやそれとは無関係に、自分が何かに命を賭けるなら
特定の誰かの命
でしかあり得ないのではないか。

生物学的な意味合いだと、それは、自分の子であるべきだが、どうやら子孫を残せそうにはない。
それならどうだろう。

自分の何かを託せる誰か、というのを見つけなければならない。
もし大学教員になれれば教え子かもしれないし、臨床領域では幼いクライアントかもしれない。

決して博愛主義ではなく、空しさに抗いながら何かを創造出来る人。私を超えていってくれる一人、その人だろう。
分からない。教育の現場に限らないのかもしれないが、やはり、心理教育含めた教育が一番近いだろう。

そしてそれは、有償である必然性もない。むしろ、その人から何かを貰うのだから。
ボランティアの方がいいのかもな。有償であれば上限が見えてしまう。

少なくとも、この試験で命を賭けるなどバカらしい、ということだ。

まあ、やっぱり、自分の食べる分くらいは自分で稼がなきゃいけないのだが。
そこが一番のネック。

ここで死んだら・・独我論的な何か

2021-02-03 00:24:01 | メンタル
昨日、大学院退学を出してきて、今日こっちで出来る手続きを少しやった。
近頃、眠りが浅く、少し身体も使ったため、疲弊している。

実家に戻ったら、新しい大学院の入試まで少し僅かだ。
と考えていたら、提出物にミス、ひょっとしたら致命的なミスをおかしたことに気づいて、否定的感情がボロボロ出てきた。

知能検査で高い数値が出てても、それは術前だし、やっぱり自分は研究者として無能なんじゃないか?
そして、一流大学院でもない今度の大学院に入試で落ちたら、それは証明されるし、そうでなくてもずっと苦しい。何のために生きてるのか。
今、自殺した方が余計な苦しみから逃れられるのでは?

とか、色々。

何度も書いてるように、物理的な存在しか認めないのであれば、私が死んだらこの世界は認識出来ない。出来ないなら、もはや、存在しないと同じ。(※)
それなら、私がいつどこでどういう死に方をして、誰が悲しんで、誰が喜ぼうが関係ない。

だが、それでも、ここで自殺既遂をしてしまえば、明らかに前の研究室と関係あるように思われるだろう。繰り返すが、それを認識出来なくても。
そう考えると癪に触って、とりあえず、眠ろうという気にはなった。
前の研究室は酷かったが、別に恨みこそすれ、憎みまではいかない。
それに、自分の命と引き換えに悪評を得させても嬉しくもない。

ああ、あれか。twitterみたせいか。twitterに私の悪口が書かれてた訳ではないし、別に通常通りだ。というか、志望先の教員がアカウント持ってるのでそのついでに見ただけだ。

どちらにしろ、もう関係ないのだ。向こうもこっちも。
そう。ここで死のうが関係ない。軽い。この命は。

それでも、やっぱり、自分の自殺がそんなどうでもいい存在にまで波及するのは気に食わない。
今はそれでいいだろう。

ただ、入試で落ちたら分からないな。

(※)これは妥当な推論ではない。端的にそう感じるだけ。
だが、自分が生きるか死ぬかは、結局、ここが全てなのだと思う。
哲学的には独我論の一種だろう。ここを矯正出来なければ、精神が危機的状況になった時に命が危ない。ただし、この独我論が直接私に引導を下す訳でもない。
やっぱり、うつ状態ありきなのか。

逆に一般的なメッセージとしたら、結局、認識出来ないのなら、生きているうちに見返せ、となるのだろう。
だが、私は疲れてしまった。

愛情の条件ー本質ー付かず離れず

2021-01-07 17:51:17 | 思考
先日、縁切り間際までいった母親との喧嘩は母親が一方的に謝ることで終息した。

でも、あれから考えることもあって、

そもそも(家族でなくても)条件つきでない愛情などあり得るのか。

それは親子関係に限らない。ステータスに基づくマッチングでの恋愛など条件つきの最たるものであり、自分が神聖視している友情だって、自分が引きこもったりすればどうなるか分からない。

要はこんな病状にありながらも、それなりの頑張りは誰からも期待されている。

無条件の愛情などない。

それは悲しいけど、おそらく自分にとってもそう。友人がホームレスになろうがニートになろうが、友人だ、と言ったところで、それも何らかの形で自分を利している。
自分を利している、というのは精神的に、だ。

何を今更という感じ。そういう意味では全ての人間は利己的だ。
だが、良い利己的と悪い利己的も存在する。

結局、その人を愛し続けられるのは、その人の本質が変わらない「限り」だ。
本質さえ変わってしまっても、愛し愛されるというのを望むのは違う。

翻って、自分やその人の本質って何だろうと考え始めた次第。

理想的には親子は親子である限り、その事が本質であるべきだ。
これはただの理想論で子どもが成人してからは変わってくるし変わるべきだ。
子どもが病気や障害であっても。

今回の件では、諦めが悪い、という自分の本質を認めて欲しかったのだと思う。
本質を否定されたから、激怒した。本質を否定されるなら、それは親だって許せなかったのだろう。

翻って、母親のことを思うと、やっぱり同情してしまうし、出来れば幸福な老後を送って欲しいと思う。配偶者(自分にとっての父)に恵まれず、また、配偶者は夭逝し、残されたのがこの二人の子どもなら、ね。
弱っていく母親を見ると、やっぱり、そういう感情は起こる。
それもまた自分の本質なら、そこを否定してもしょうがない。

でも、実家に帰るとちょっと(精神的に)ベタベタしすぎなんだよな。

今いる大学院は中退するが、実家に戻ってもそこまでウェットになったらお互いの自律を損ねる。
(自分が大阪行ってからやたら優しくなったし)
そこら辺が難しい。

そしてまた人柱へ~ラツーダ

2020-12-29 22:53:23 | 闘病(精神疾患)
知り合いがラツーダという双極にも適用される新規の向精神病薬を試しているらしい。

今の処方だと波がまだすごいあるし、結局、レキサルティは効いているのか分からない。
というか、前から書いてるように、やっぱり、どの薬も効かないのだろう。

とはいえ、試してみる価値はある。
受診は年明けだが、お願いしてみよう。

あと、瞑想と運動をサボりがちなので、それもきちんとしよう。
幾ら覚悟を決めたとはいえ、やっぱり、今の状態だと大学院生活は厳しいし厳しかったのだから。
それで寛解なんてのはなくても、少しでも、調子を上げないと。